(2) 植生の変遷

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 植生の動きには、気候の変動にともなうダイナミックな地史上の変遷があった。

 最近は花粉分析学が発達して、地層のなかに埋もれている植物花粉を調べることで、堆積(たいせき)当時の環境が推定できるようになった。野尻湖の湖底発掘や飯綱高原の湿原のボーリング調査、志賀高原でも早くから資料が得られている。これら周辺の情報によって、古い歴史が少しずつ語れるようになってきた。

 野尻湖の発掘資料によると、約2~3万年前のもっとも寒冷な氷河期のころは、年平均気温が今より6℃も低かった。湖畔の周囲は、トウヒ、ヒメバラモミ、コメツガ、カラマツ、チョウセンゴヨウなどの亜寒帯林、現在の亜高山帯針葉樹林と似たような森林がおおっていたと考えられている。また、他の資料によれば、最寒期には8℃も低温で、森林帯は1,500mも下がっていたと推測され、長野盆地も針葉樹林に埋まっていたことになる。

 その後、縄文時代になると温暖化に向かい、南方へ押しやられていたブナ、ナラ、ニレ、シナノキなどの広葉樹が北へ分布を広げ、5,000年前ごろには、逆に夏緑樹林帯が現在より400mも上昇している。そして、千数百年前からは農耕の時代に入り、焼畑(やきはた)農業によって森林はアカマツ林などに大きく変えられてきた。

 氷河期晩期からこれまで2万年の推移をみても、気候変動にともなって長野市周辺の森林は大きく移り変わっている。しかし、もっともきびしかった氷河期であっても、このあたりが氷の下に埋もれていたわけではない。

 この間、寒冷期になると標高の低い地方や南方まで寒地に育つ植物が分布を広げ、亜寒帯のモミやツガの仲間が森林をつくり、丈(たけ)の低いコケや草木が地面をおおっていた。温暖期には、暖地の植物がこれまでの植生を北へ押しやり、あるいは高い山へと追いあげてきた。

 地球の長い歴史のなかでの植生の広がりは、ちょうど大波が押したり引いたりするように、それぞれの時代の気候変動にともなって日本列島の上を南へ北へと行き来していたことになる。