(2) 千曲をおおうモモの花

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 モモ(桃、バラ科)は古くから毛桃(けもも)と呼ばれ日本にあったが、明治時代に中国や欧米から導入した品種は、果実も大きくて甘く軟らかであった。とくに中国産の上海水蜜桃(しゃんはいすいみつとう)の味は格別で、モモのことを今でも水蜜桃と呼ぶほどである。現在の栽培品種の多くは中国系がもとで、岡山県や神奈川県の熱心な農家によって品種改良が進み、白桃、大久保、白鳳(はくほう)など多くの主要品種が生みだされた。モモは他の果樹と違って木の寿命が20年ぐらいと短いため、品種の移り変わりが激しいとともに、産地も移動しやすくなっている。

 長野市近辺では、早くから東福寺桃と名がある篠ノ井地方が知られている。1912~26年(大正時代)に5町歩ほど栽植されていたというが、1955年(昭和30)ごろからモモ栽培の関心が高まり、産地としてまとまってきた。1960年ごろからは川中島地区でも栽培が増え、東福寺とともに新品種の導入を積極的に試みている。若穂の小出地区も、古くからモモ栽培が盛んであった。川田の領家(りょうけ)や牛島地区にも広まって、4月から5月の千曲川一帯はモモの花で埋めつくされる。若槻の髻(もとどり)山麓から牟礼村にかけては、明治末ごろから栽培されていたという。ここのモモ畑から見る残雪の黒姫山と妙高山の景観が優れ、多くの画人に好まれて丹霞郷(たんかきょう)と名づけられている。

 ネクタリンは毛のないモモで、油桃(あぶらもも)といって日本でも昔から栽培されていた。現在の栽培品種は、明治になって外国から導入された品種の子孫とされている。


写真6-159 千曲川べりのモモ畑


写真6-160 真っ赤に熟したモモ