長谷川五作(1880~1963)略伝

422 ~ 422

 埴科郡(現更埴市)に生まれ、松代町(現長野市)の長谷川家を継ぎ、県内の小学校や愛知女子師範、東京府立第五中を経て屋代高校で引退した。川田や松代小学校に勤めながら、ムギ、エンドウ、蚕などの交配実験を重ねて遺伝教育に尽くしている。とくに、信濃教育会の理科筆記帳(現在の理科教科書)の編集に携わり、メンデルの遺伝の法則を最初に掲載したことで知られている。創立時の屋代中学に転勤して(大正12年)エノキ茸の試験栽培を始め、博物学授業の教材に利用するとともに西條青年団(松代)等で冬季副業としてエノキ培養をすすめ、ビン栽培法を考案するなど、その後のエノキタケ産業発展の基礎を築いた。昭和41年、それらの功績をたたえて菩提寺の松代町長国寺に胸像が建てられた。


写真6-246 長谷川五作胸像(松代町長国寺)