(1) 川と人びとの生活

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慶長年間(1596~1615)、松代城代の花井吉成は、水田をうるおす農業用水として犀川から三堰を開いたと伝えられ、川中島平は豊かな農作地帯となった。たびたびおこる洪水に、松代藩では幕府の援助を受けて堤防を築き、瀬替えを施して治水につとめてきた。

 いっぽう、高い石垣を築いて建物をつくるなど、住民も独自に水防の知恵を身につけてきた。集落のまわりに堤防を巡らした若穂牛島地区の輪中(わじゅう)堤は、江戸時代からの遺構として知られている。

 千曲川と犀川の水害史のなかで1742年(寛保2)の「戌(いぬ)の満水」は、長沼の赤沼にある善光寺平洪水水位標に史上1位の大洪水の跡として刻まれている。松代町岩野には、犠牲となった人々の川流万霊供養塔がある。1847年(弘化4)3月24日の善光寺大地震は、犀川沿いの虚空蔵(こくぞう)山が崩れて川の流れをせきとめた。上流の人家や耕地を水没させ、20日のあいだ、犀川の水をたたえた土砂はついに決壊して、濁流は一気に川中島一帯をのみこんだ。松代藩領の被害は、死者が2,700余人にもおよんでいる。真田宝物館には、被害のようすを描いた絵図が今でも数多く残されている(建設省北陸地方建設局、千曲川工事事務所資料による)。


写真8-19 歴史を刻む善光寺平洪水水位標-標柱の高さは約5m(赤沼)