長野盆地南部の遺跡

18 ~ 22

善光寺平南部は千曲川をはさんで両岸に同じような地形が展開し、その地形に沿って各時代とも同じような時代・時期の遺跡が盛行する点がこの地域の特色でもある。

 旧石器時代の遺跡は、篠ノ井の篠山中腹にある猪平遺跡(六五〇メートル)、更埴市の大田原峠遺跡(九〇〇メートル)や県山遺跡など沖積地を見下ろす高地に位置し、縄文早期の更埴市池尻・佐野山・鳥林遺跡(四五〇メートル)も標高の比較的高い山麓部にある。

 ところが、昭和六十三年(一九八八)から長野自動車道建設にともなって篠ノ井塩崎、同石川地籍が発掘され、稲荷山駅裏の石川条里遺跡の地表下三メートルの沖積地の下から縄文前期初頭の住居跡三軒が出土したのである。その後、平成四年(一九九二)には対岸の更埴市屋代遺跡群の地表下六メートルから縄文中期の集落跡が発見され、周堤をもつ竪穴(たてあな)住居や埋甕(うめがめ)、イノシシの頭骨を埋納した穴などが発掘された。

 塩崎の伊勢宮遺跡からは遠賀川(おんががわ)系土器、松節遺跡からは西日本の墓制である木棺墓が発掘され、そこや篠ノ井遺跡群から出土した人骨は、歯は縄文人より大きく上顎の中切歯の内側がくぼむ「シャベル型」の切歯をもつことから、大陸からの渡来系弥生人であることが判明した。この人びとが善光寺平に最初に稲作文化を伝えた人びとであった。なお、伊勢宮遺跡では姫川流域から運ばれた翡翠(ひすい)も出土している。

 石川条里遺跡の弥生後期の水田面には、杭(くい)を打った水路跡が発見された。幅三・二メートル、総延長四〇〇メートルにもおよぶ大規模なもので、この水路は古墳時代にも継承されている。さらに、鋤(すき)・鍬(くわ)・エブリなどの弥生時代から古墳時代の木製農耕具が県内ではじめて発掘された。この調査によって千曲川の自然堤防上に集落、その後背湿地が水田という、弥生時代以来の地形利用の実態が発掘によって証明されたのである。

 篠ノ井遺跡群の長野道地点では弥生後期の環濠(かんごう)集落とその外側に方形周溝墓が、同新幹線地点では多数の円形周溝墓群が発掘された。さらに、聖川堤防地点においては前方後方形の周溝墓がつくられ、山上の前方後方墳である姫塚古墳へと継承されていく。

 また、弥生時代の青銅器は戸倉町の若宮遺跡から銅剣、松節遺跡から銅矛(どうほこ)、篠ノ井遺跡群からは重圏文鏡が出土している。稲作文化とともに大陸から伝えられた卜占骨(ぼくせんこつ)は、更埴市の生仁(なまに)遺跡、松代町清野の四ツ屋遺跡から発掘され、生仁からは鹿角に線を刻んだ資料も出土している。

 千曲川右岸の自然堤防上には、古墳時代の集落遺跡として更埴市に城ノ内・灰塚・五輪堂遺跡があり、更埴条里の広い水田面の背後の比高差一一〇メートルの尾根上に全長一〇〇メートル、県内最大の前方後円墳の森将軍塚古墳がある。遺体が埋葬された竪穴石室は長さ七・六メートル、幅二・三メートル、高さ二メートルで、床面積は日本最大である。復元工事に先立つ全面発掘によって、周辺から九四基の小型埋葬施設が検出された。副葬品には三角縁(さんかくぶち)神獣鏡があり、四世紀中ごろにこの地域が大和朝廷の勢力下に入ったことがわかる。この森将軍塚古墳の被葬者の首長権は、更埴条里を取りかこむ尾根の上に築かれた土口(どぐち)将軍塚・倉科将軍塚・有明山将軍塚古墳の順に継承されていったと考えられる。

 千曲川左岸の古墳集落には、同じく自然堤防上に篠ノ井遺跡群があり、古墳は姫塚古墳をうけつぐ全長九三メートルの前方後円墳の川柳将軍塚古墳がつくられ、その首長権は中郷(なかごう)古墳・越(こし)将軍塚古墳へと引き継がれていった。なお、稲荷山駅裏の石川条里遺跡の、一辺一〇〇メートルの溝がめぐる祭祀(さいし)遺構からは、川柳将軍塚古墳の副葬品に似た鏡、車輪石、石釧(いしくしろ)、玉類が壊された状態で出土し、殯(もがり)や首長権の継承儀礼がおこなわれた場所と考えられる。


写真7 川柳将軍塚古墳

 信更町の聖川流域には水田面が広がり、そこを支配した首長が埋葬されたのが田野口大塚古墳である。これに近接して県内初の古墳時代の須恵器を焼いた松ノ山窯跡(ようせき)がある。

 古代関係では平成六年の発掘により、更埴市屋代遺跡群から国符や郡符木簡(もっかん)、さらに郷名や「他田(おさだ)」・「金刺(かなさし)」などの人名を記した木簡が一二六点ほど出土した。とくに当初軍団木簡の出土から、この付近に初期信濃国府の存在した可能性が高くなり、埴科郡衙(ぐんが)も存在することが確実となった。

 更級郡の郡衙の比定地は更埴市八幡(やわた)の郡(こおり)で、この周辺では更埴市の北稲付遺跡から木簡、同じく社宮司(しゃぐうじ)遺跡から平安時代の建物跡と奈良三彩が出土している。

 篠ノ井の石川条里遺跡や更埴市の馬口遺跡からは九世紀後半の洪水砂に埋もれた水田が検出され、そこには人や牛の足跡が残されていた。石川条里遺跡では線状の鋤痕(すきこん)があり、条里の坪の区画が一〇九メートルで仕切られることも明らかにされた。

 仏教関係の遺跡では、白鳳(はくほう)時代の瓦(かわら)をもつ篠ノ井の上石川廃寺があり、ここで使用された瓦は信更町の灰原付近の窯(かま)で焼かれた。更埴条里、篠ノ井遺跡群新幹線地点から瓦塔(がとう)が出土しており、長谷寺裏からは、仁平(にんぴょう)元年(一一五一)銘のある金銅製経筒(きょうづつ)が出土している。更埴市五輪堂遺跡からは、六・八×六・七メートルの方形で、南側に突出部をもち、まわりに一段の石列のある堂跡も発掘された。

 古代の集落遺跡は、塩崎小学校・篠ノ井遺跡群・松代四ツ屋遺跡と自然堤防上に連綿とつづき、四ツ屋遺跡からは「松井」と郷名を刻んだ刻書(こくしょ)土器も出土している。

 中世では、自然堤防上の更埴市窪河原(くぼがわら)遺跡から一三~一四世紀の火葬墓、山頂の塩崎見山砦(みやまとりで)跡においては、一五~一六世紀初頭の山城の全貌(ぜんぼう)が発掘された。

 自然災害の関係では、篠ノ井遺跡群の古代面に地震の液状化による噴砂が発見され、窪河原遺跡では幅四〇センチメートルあまりの規模の大きな噴砂があり、弘化四年(一八四七)の善光寺大地震にともなうものとされた。こうした地震の噴砂は、その後、善光寺平の千曲川の自然堤防上にある松原遺跡など各地の発掘現場で確認されている。さらに、川中島町今里遺跡では新幹線工事にともなって洪水砂におおわれた近世の畑が検出され、弘化四年の善光寺大地震に起因するものと考えられた。

 犀川扇状地の扇端部では、田中沖遺跡で古墳後期の集落が検出され、さらにオリンピック開閉式場建設にともなう篠ノ井東福寺の南宮(なんぐう)遺跡では、八世紀から一一世紀にかけての大規模な古代集落遺跡が明らかになった。更埴市の清水製鉄遺跡からは一〇世紀後半の平安時代の製錬炉一七基、炭焼成土坑(どこう)二六基や鍛冶(かじ)遺構が発掘されている。


写真6 長野盆地南部を望む