若穂・須坂地域の遺跡

24 ~ 25

河東の若穂から須坂方面では、上信県境の山岳部に、草創期の最古の縄文土器である隆起線文土器を出土した須坂市の石小屋洞穴遺跡、爪形文土器や早期土器を発掘した高山村の湯倉洞窟(どうくつ)遺跡がある。湯倉洞窟では、早期の置き石をして屈葬した女性の右側臥人骨が出土した。これらの遺跡は標高一五〇〇メートルという山岳地帯にあり、定住的な集落が成立する以前の縄文遺跡である。

 保科扇状地扇側部にある宮崎遺跡では、縄文の晩期の住居、石棺墓、銛(もり)、サメの背骨を加工した耳飾りなど海とのかかわりの強い資料やアスファルトが出土している。

 若穂川田条里遺跡は保科扇状地の末端に位置し、現在の水田下に一〇面の埋没水田が確認された。地下八〇センチメートルに江戸時代の稲株跡を残す水田面、その下に鎌倉・平安・奈良の水田面がつづき、古墳時代の水田面は二メートル四方の小区画水田であった。また弥生後期の水田には木材を多用した灌漑(かんがい)用の水路が設けられていた。弥生中期の水田は自然流路に沿う低く狭い範囲に三〇~八〇センチメートルの畦(あぜ)を地形の傾斜に合わせて直交、平行させ、傾斜方向に水口を設け、ひとつの区画の面積は三〇平方メートル前後で、現在の水田面積の三〇分の一ほどであった。

 若穂保科の東山の尾根上には、三基の前方後円墳と二基の円墳が最近確認された。そのうち、全長四二メートルの前方後円墳である東山三号古墳が発掘され、長さ五メートル、幅一・四メートルの竪穴石室をもち、内行六花文鏡・鉄斧(てっぷ)・ヤリガンナ・砥石(といし)を有する四世紀末の古墳であることが判明した。これにより、従来は善光寺平南部で考えられてきた前期古墳の変遷を、もう少し広いエリアのなかでとらえ直す必要性を提起した。この北側にある大星山古墳群からも、合掌形石室をもつ五世紀代の円墳が発掘されている。長原古墳群は保科扇状地の扇央部に積石塚古墳一八基がつくられており、その中央部の七号古墳からは百済(くだら)系の須恵器が出土し、最上部には合掌形石室をもつニカゴ塚古墳があった。

 若穂綿内の温湯(ぬるゆ)にある榎田(えのきだ)遺跡は、弥生中・後期、古墳時代の集落遺跡で、古墳時代の幅二〇メートルの河川跡から土師器(はじき)・須恵器、木製鐙(あぶみ)・鞍(くら)・剣の鞘(さや)、腰掛、鳥形木製品、かせい・たたりなどの紡織具、扉・梁(はり)・梯子(はしご)などの建築材、漆塗りの櫛(くし)、竪杵(たてきね)、鍬(くわ)・鋤(すき)・エブリ、曲物(まげもの)、獣骨、植物種子など大量の遺物が出土した。その上には、平安時代の集落や木棺墓、中世の館跡も残されていた。春山城の下にある北の脇遺跡からは、戦国期の道をはさんだ小規模な建物群が発掘されている。

 五世紀中ごろ以降の古墳は広い沖積地を離れ、従来は顧みられなかった扇状地の扇頂部や扇央部へと進出してくる。それを物語るのは須坂市八町の鎧塚(よろいづか)一・二号古墳である。この時期に扇状地の開発が進展してきたことを物語っている。