遺跡にみる地震の痕跡は、県内では諏訪地域がもっとも多いが、千曲川流域でも南佐久郡北相木村の栃原岩陰(とちはらいわかげ)遺跡の落盤死の子どもをはじめとして、唐沢岩陰、湯倉洞窟遺跡などでは大きな落盤のあとがあることから、これらの引き金になったのは地震であった可能性が高い。
地震による噴砂は千曲川下流域の更埴市窪河原遺跡や篠ノ井遺跡・松原遺跡などにみられたが、県内では今のところ千曲川の下流域で発見されているだけである。このうち古代の噴砂は篠ノ井遺跡と松原遺跡で発見されており、近世の善光寺大地震にともなう噴砂は窪河原遺跡にみられた。
地震以上に善光寺平に大きな被害をもたらしたのは洪水であった。それを住民の側からみれば、洪水との絶えまのない闘いの歴史だったともいいかえることができる。豊野町蟹沢(かにさわ)の記録では、応永年間(一三九四~一四二八)以後、明治三十九年(一九〇六)までの五〇〇年間に一二五回の洪水があり、平均すると四年に一度の洪水に見舞われているのである。長沼においては寛保(かんぽう)二年(一七四二)の「戌(いぬ)の満水」では七月二十七日から八月二日まで七日間雨が降りつづき、赤沼で六・三メートル、長沼で三・三八メートルも水がついている。さらに、ここでは近代的な堤防が築造されてきた明治三十年(一八九七)から昭和九年(一九三四)の三七年間に、一四回もの洪水を記録している。
屋代遺跡群や松原遺跡の縄文面の上に六メートル近く堆積した土層が、洪水の歴史を大地のなかに刻んでいるのである。平安時代前期の遺跡でも、更埴市の馬口遺跡や石川条里遺跡に厚い洪水砂の堆積が認められる。このことは、大規模な洪水が千曲川流域で発生したことを証明している。この洪水については、文献史料に記された仁和(にんな)四年(八八八)五月八日の「信濃六郡洪水」との関連が濃厚である。
『日本紀略』には「仁和四年五月八日、信濃国大水ありて山頽(くず)れ河溢(あふ)る」と太政大臣藤原基経の上書に記され、これを受けて宇多天皇から被災者救済の詔(みことのり)が出されたのである。『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』では、「(中略)去年七月三十日神徳静を失し地震いて災をなす。八月二十日また大風洪水の沴(れい)あり、前後重害に遭(あ)うもの三十有余国なり。(中略)重ねて今月八日、信濃国山頽れ河溢れて六郡を唐突し、城廬(じょうろ)地を払って流漂し、戸口波に随って没溺す。(下略)仁和四年五月二十八日」と記す。この五月八日(太陰暦)は太陽暦では六月二十日にあたるから、梅雨時の大雨の時期である。
なお、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』には、「仁和三年七月三十日辛丑(かのとうし)、申(さる)の時地大いに震う。数刻やまず。(中略)同日亥(い)時、又震うこと三度。五畿(ごき)七道諸国同日大いに振い官舎多く損ず。(中略)信乃(しなの)国大山頽崩(たいほう)し巨河溢れ、流れ、六郡の城廬を払って漂流し、牛馬男女の流れ死するもの丘をなす」とある。しかし、これは誤りで、一九八八年版の『理科年表』からも仁和三年の地震項目は除外されている。いずれにしても、砂原(北佐久郡浅科村)、力石条里(上山田町)、馬口(更埴市)、石川条里遺跡の洪水砂の堆積は、この仁和年間に近い年代が考えられている。その後も千曲川はひんぱんに洪水を起こし、江戸時代においても三分南遺跡(東部町)のように洪水に埋もれた畑が遺跡として残されるのである。
弘化四年三月二十四日の善光寺大地震のさい、犀川流域では岩倉山(虚空蔵(こくぞう)山)が崩落して水篠橋上流で犀川をせき止め、四月十三日四時ごろ、この土砂が崩れ、鉄砲水が多量の土砂とともに善光寺平にあふれた。篠ノ井御幣川(おんべがわ)から寺尾、松代付近まで水がかかり、下流は新潟県まで水害の被害を出し、赤沼では六四軒が流出し、死者三三人を出し、全体では二七七〇人が死亡したという。このときの洪水堆積が新幹線工事にともなう発掘で、川中島の今里遺跡で確認された。しかし、犀川扇状地の扇端部に位置する更北小島田(おしまだ)の田中沖遺跡や篠ノ井東福寺の南宮遺跡の発掘では認められず、南宮遺跡では表土下二〇~三〇センチメートルに軽石混じりの土が堆積していたことから、むしろ千曲川の洪水の影響と考えられた。このため、善光寺地震の洪水堆積は犀川扇状地の扇央部まで達したことが発掘によって証明されたのである。