六 すすんだ開発と自然環境の変化

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 日本における自然破壊は弥生時代の稲作農業の開始とともに始まったといわれる。その後古墳時代から平安時代にかけて農具や木工具への鉄刃使用が急速に普及し、山地の森林伐採に手がのびたため、ほんらいのクヌギ・コナラなど一次林から松に雑木が混じる二次林が発達していった。このように、周辺の山の木々が伐採されると洪水発生の頻度が高くなり、下流の自然堤防の形成を促進したといわれる。

 確かに善光寺平の松原遺跡や屋代遺跡群の縄文遺跡の生活面をおおった厚い土層は、そのことを証明している。その堆積土には石は混じらず、砂と泥が静かに沈殿して堆積した状況を示していた。洪水の大水が集落や耕地を水没させ、しばらく滞水していたのち水が引き、そのあとにこれらの砂と泥を残していったかのようである。これを何回か繰りかえした結果として厚い土層が形成されたのである。

 弥生時代には平地に定住して、家や倉庫を建て、農具の材料、薪(たきぎ)などまで山から伐採した樹木でまかなった。また、石川条里遺跡の灌漑施設の水路跡に残された大量の木材のように、水田耕作にともなう水路や畔に使用される樹木もかなりの量にのぼったのである。

 須恵器を焼くには松材が不可欠で、六世紀はじめの松ノ山窯跡(ようせき)を考えると、この時期に千曲川の流域には二次林の松林が広かっていたとみることができる。古代になると、北佐久郡北御牧(きたみまき)村の八重原(やえばら)窯跡、更埴市の大田原窯跡、信更町の灰原窯跡、若槻田中の初期善光寺瓦を焼いた窯跡、中野市の草間窯跡などにも瓦や須恵器を焼く窯業を発達させたが、そのためにかなりの松材等が伐採されたのである。また、佐久市の石附製炭遺跡のように製鉄に使用する炭を得るために、奈良時代からは製炭用の伐採もおこなわれた。

 さらに、古代の統一国家建設に向けて、信濃国においてもその整備がはかられていったが、更埴市屋代遺跡群出土木簡に大化改新からわずか二〇年後の木簡があることから、律令国家づくりは急速に推しすすめられたことが理解される。奈良時代の千曲川流域は信濃国の中核的拠点になったため、信濃国府、郡衙(ぐんが)、駅家(うまや)、信濃国分寺や氏寺(うじでら)、牧の木柵(もくさく)、さらに郷を構成する集落内の掘立柱建物、竪穴住居などに、大量の木材と瓦が使用されたはずである。こうして、山地ばかりでなく、それまで緑の樹木に覆われていた河岸段丘上、周辺の扇状地や崖錐(がいすい)も古墳時代中期以降開発がすすみ、樹木が伐採され、集落や畑となり、ここからも大量の土砂が千曲川へと流れこんだのであった。

 このように弥生時代以降の農業、窯業、製鉄、木工の技術的進歩によって、徐々に千曲川流域の森林植生が失われ、洪水の要因にもなっていったのである。

 現在の千曲川流域をみると、中流や下流を中心に早くから開発がすすんだためか、それを如実に物語るかのように善光寺平には平地林を見いだすことができない。犀川流域の松本盆地や天竜川流域の伊那盆地には今でもかなりの面積の平地林が残されているのにたいして、善光寺平では小布施町の松川沿いにわずかな松林をみるだけである。

 以上、長野盆地の地形とそこに立地する遺跡を概観した。以下の第一章ではその遺跡・遺物を歴史資料にして、長野市域最古の時代の地域史について叙述していく。