上ゲ屋遺跡では、石器や石片が集中するブロックと、焼けた河原石が集中する礫群(れきぐん)とが発掘された。このブロックは石器を作った作業場と考えられる。礫群は石焼きバーベキューの跡を想像すればよい。この時代は、後続する縄文(じょうもん)時代のような竪穴(たてあな)住居が発見されることはほとんどない。当時の人びとは狩猟(しょりゅう)の対象とした動物たちを追いもとめながら、移動(遊動)生活を送っていたと考えられており、しっかりと大地を掘りこんで住居をつくることはせず簡単なテント小屋をつくり、そこで寝起きしていたと推定される。上ゲ屋遺跡では一・二次の調査をとおして四ヵ所のブロックと礫群が調査された。
旧石器時代の人びとは、キャンプを営みながら移動生活を送っていたが、そのような遺跡が単独で存在することはほとんどなく、河川の流域や、湖や湿地の周辺に同時期の遺跡が複数集まっており、遺跡群を形成している。上ゲ屋遺跡も例外ではなく、調査地点の西には湿地がひろがり、その湿地の周囲を試掘調査したところ、石片や礫が発見された。遺跡の規模には大小がありそうではあるが、湿地をとりかこむように遺跡群を形成していると理解してよさそうである。
現在、飯綱高原には、大座法師(だいざほうし)池をはじめとして、池沼が数多く分布する。これらのほとんどは人工的につくられ、用水溜池(ためいけ)として利用されてきたものであるが、もともとはやはり、凹(くぼ)地・湿地であったと考えられる。そのあたりにもおそらく上ゲ屋遺跡群と同様な遺跡群が多数分布し、野尻湖周辺の遺跡群と同様な生活の舞台が展開していたと考えられる。上ゲ屋遺跡の旧石器時代人も、半径十数キロメートル圏内を日常生活の領域としてそのなかを周回していたことと思われる。