旧石器人の地域交流

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上ゲ屋遺跡出土の黒曜石(こくようせき)は、遺跡の周辺で採取することのできる石材ではない。おそらくは、和田峠あたりから約七、八十キロメートルの道のりをへてもたらされたものと考えられる。また、珪質頁岩(けいしつけつがん)は新潟県方面からもたらされたものと思われる。産地に直接出向いていって採取したのか、あるいは交易のようなものがあったのか、詳細は不明であるが、当時の人びとは、かなり遠くの地の情報を得ることができていたことがわかる。

 上ゲ屋遺跡が形成されていたころの人びとは、石材を求めて、日本列島をかなりの広範な地域で遊動していたことがうかがわれる。


図5 地域性のめばえ

 また上ゲ屋遺跡から発見されたナイフ形石器をさらにこまかく観察すると、製作の方法にいくつかの癖(くせ)があることが指摘できる。関東に分布の中心をもつ茂呂(もろ)型ナイフ形石器、東北地方に分布の中心をもつ杉久保(すぎくぼ)型ナイフ形石器、近畿地方に分布の中心をもつ国府(こう)型ナイフ形石器がみられるのである。それは上ゲ屋旧石器人とそれぞれの地域の集団とのあいだに何らかのかかわりがあったことを示している。石材を求めて遠出をした上ゲ屋旧石器人が、周辺地域の文化に触れたのかもしれないし、逆に周辺地域の人びとが上ゲ屋にやってきたのかもしれない。いずれにしても、ナイフ形石器をもつ旧石器人は自分たちの地域を形成しながらも、あるときはその地域を越えるような移動もおこなっていたことがわかるのである。

 二万年前のもっとも寒冷な時期をすぎ、上ゲ屋遺跡などのナイフ形石器や尖頭器を主要な狩りの道具としていた文化は、日本各地でさらに発達をとげていたと考えられる。そのいっぽうで、大陸ではナイフ形石器や尖頭器にかわる新しい道具である細石器(さいせっき)がすでに発明されていた。