北と南の文化

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東北アジアから日本列島に細石器文化が伝播(でんぱ)したのは、約一万八〇〇〇年~一万五〇〇〇年前とされている。その伝播の入り口となったのは、細石器に先だつナイフ形石器などの石器群と細石器との共伴(きょうはん)関係や、細石核の種類の多さ、細石器を出土する遺跡の数から考えて、大陸と向かいあった北海道と九州であった。

 当時、北海道は大陸と陸橋(りくきょう)によってむすばれていた。この時期の九州は大陸と切りはなされているが、現在よりも朝鮮・対馬海峡(つしまかいきょう)はせまく海を渡ることも可能であったと考えられる。大陸ではアムール川・レナ川流域のサケ・マス漁に細石器が使用されるようになることから、漁労(ぎょろう)生活のなかで渡海技術も身につけたのであろう。北海道・九州で出土する細石核には、白滝(しらたき)系・荒屋(あらや)系・矢出川(やでがわ)系の三者の製作技法が確認されている。それがしだいに北海道から南下し、九州から北上していく。そのころの本州はまだナイフ形石器の時代であった。その時期の遺跡としては安茂里萩平遺跡の剥片(はくへん)尖頭器や飯綱高原の上ゲ屋遺跡石器群がある。その後、東北日本には白滝系・荒屋系細石核を主体とし荒屋型彫器をあわせもつ石器群が南下してくる。その終点にあたるのが小田切の小野平遺跡の荒屋系細石核や、木曽開田高原の柳又(やなぎまた)遺跡の白滝系細石核である。その時期は一万五〇〇〇年前ごろであろうか。また、九州や西南日本に多く分布したのは矢出川系細石核で、南佐久郡南牧(みなみまき)村矢出川遺跡や茅野(ちの)市御座岩(ございわ)遺跡はその分布の北限にあたる(図8)。日本には対立するような細石器文化の二つの地域性があった。長野県はまさに東西の石器文化の接点にあたっているのである。


図8 旧石器時代末の石器群の分布

 細石器文化での地域性の出現はその伝播の経路、すなわちシベリアの細石器文化と中国華北地方・朝鮮半島の細石器文化の相違を引きついだとする考えかたもあるが、図9のような東西日本の植生の違いを反映した可能性も高い。ただし、石器群の相違がどのような生業の違いを生みだしていたのかはまだ解明されていない。日本の社会が激動期を迎えたときに明らかにあらわれる東西の違いは、すでに旧石器時代の末に始まっている。


図9 旧石器時代の日本の植生