磨製石斧の使用

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後氷期(こうひょうき)に向かって気候は温暖期と寒冷期を繰りかえしながらもしだいに温暖化していく。そうしたなかで新たに登場したのが神子柴型石斧(みこしばがたせきふ)と尖頭器(せんとうき)である。昭和三十三年(一九五八)に上伊那郡南箕輪(みのわ)村の神子柴遺跡で、大型の石斧(せきふ)・尖頭器・掻器(そうき)・石核・石刃(せきじん)など九〇点の石器が楕円(だえん)形に配置されたような規則的位置関係を保って出土した。この大型の石斧は断面がD字形をして、刃部に研磨痕(けんまこん)を有しており、斧(おの)・鑿(のみ)といった木材加工の道具と考えられている。精巧につくられた尖頭器(石槍(いしやり))は石器製作技術の頂点をきわめるような優美な形にしあげられている。また、発見当初から磨製(ませい)石斧は旧石器時代には存在しないという当時の学界の定説と、神奈川県夏島(なつしま)貝塚で出土した土器の放射性炭素年代測定法による古さから、縄文時代の年代の位置づけや日本での旧石器時代の存否をめぐって、大きな論争を引きおこした石器群であった。

 その後の発見で、神子柴文化に属する遺跡は、北海道から九州まで一〇〇をこえるようになり、石器の出土した火山灰層の年代測定から約一万五〇〇〇年~一万年前の旧石器時代の最後に位置づけられる石器群と考えられている。発見当初からシベリアの石器との関連が指摘されていたが、日本と同年代の断面D字形の局部磨製石斧や大型の尖頭器をもつ石器群は、シベリアのレナ川・アムール川流域・沿海(えんかい)州・オホーツク海沿岸で発見されており、細石器(さいせっき)と共伴する遺跡もある。おそらく神子柴文化はサハリンを経由(けいゆ)して日本列島に南下した石器群であったのであろう。

 神子柴遺跡と同様な石器群は、菅平高原の唐沢B遺跡でも発見されている。長野市内では松代町大室(おおむろ)の宮の入遺跡と篠ノ井塩崎の猪平(いのたいら)遺跡で神子柴型石斧が、信更町田野口の上和沢(かみわざわ)遺跡では神子柴型尖頭器が、さらに塩崎の塩崎城見山砦(みやまとりで)遺跡では尖頭器と掻器が発見されている。長野市内の神子柴文化の遺跡は盆地周辺部の谷地形や、見山砦遺跡のように盆地を見おろす山上に立地しており、上ゲ屋遺跡などより古い時期の遺跡とくらべればかなり盆地底部に近よった場所で、しかも不安定な地形で発見されている。このように同じ石器文化に属していても神子柴・唐沢B遺跡とは遺跡の立地に違いがみられる。長野市内の神子柴文化の遺跡は盆地底面を望むような立地をとるが、旧石器時代に盆地底面がどのような状態であったかは、深い土砂の堆積にはばまれ、かいもく見当がついていない。

 また、神子柴文化の遺跡には、佐久市の下茂内(しももうち)遺跡のように、大量の石材を使いながら完成した石器がとても少ないことから石器製作跡とされる遺跡もある。むだづかいのように多量に同じ形の石器を製作することは、石刃技法にもとづきさまざまな形の石器をひとつの石核から省資源的に製作したナイフ形石器の時代の石器製作技術とは大きく違ってきている。

 この点で神子柴型石斧・尖頭器は、ひとつの道具づくりのためにひとつの製作技法が存在する縄文時代の石器製作への橋渡しをした石器と考えられる。また神子柴文化は、生活跡・生業跡・石器製作跡など場の使い分けがはっきりとおこなわれている石器文化でもある。なお、この系統に属すると思われる東京都の前田耕地(まえだこうち)遺跡では、多量の尖頭器と二棟の竪穴(たてあな)住居跡が発掘され、その住居跡からは土器とともにサケ類の歯の化石が発見されている。この石器文化は縄文時代の開始を告げるものでもあった。