狩猟採集の生活

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縄文早期遺跡は、更埴市の池尻(いけじり)・佐野山・鳥林遺跡や長野市でも比較的標高の高い山麓(さんろく)部に立地している。飯綱高原の逆谷地(さかさやち)遺跡からはこの時期の落とし穴が発掘されており、これは、動物のけものみちを利用した狩猟法といえる。

 約一万二〇〇〇年前に日本海が形成されると、日本海側の山々に大雪が降るようになる。こうした多雪化はすべての生命の根源となる豊かな水を供給し、植物や動物をはぐくんだ。そして、生い茂ったブナやコナラなどの落葉広葉樹の森から流れでる栄養分の多い川には淡水魚が生息した。千曲川流域の縄文時代早期の漁業は栃原岩陰遺跡の発掘資料から、かなり具体的な姿が浮かび上がってくる。

 栃原岩陰遺跡では、約八〇〇〇年前の押型文土器にともなって、サケ・マス科の脊椎(せきつい)骨、シカの管状骨でつくった長さ二・六センチメートルの釣り針と五センチメートル前後の直線的な直釣り針が出土している。この釣り針は小型であることから、海から溯上(そじょう)してきたサケ・マスではなく、千曲川の支流上流部に生息するイワナやヤマメなどのサケ科の魚を対象に使用されたものであろう。

 また、栃原岩陰遺跡に住んだ縄文人は、魚ばかりでなく、相木川にすむ淡水産貝類もさかんに取っていた。砂礫(されき)質の川に生息するカワニナやカワシンジュガイも発掘され、とくにカワシンジュガイは貝塚のように小さな貝層の状態で出土した。その幼生のグロキジウムは六~八月にかけてサケ科の魚のエラやヒレ、体表などにかぎで付着して、栄養を吸いとって成長してから、魚を離れて水底に落ちて幼貝となる。魚に寄生することによって成長する生態から、多くのカワシンジュガイが生息していたということは、サケ科の魚がたくさんいたことを物語っている。

 さらに、カラスガイが発掘されていることから、当時遺跡の近くには水の流れのゆるやかな砂泥質の川底があったことがわかり、現在では千曲川との合流点に近い相木川下流の地籍にそのような河川環境が残されている。そこは出土骨のなかにみられるカワウソが巣をつくる場所でもある。イタチ科の水生哺乳(ほにゅう)類であるカワウソはこうした淀(よど)みの水面下に出入り口のある巣穴を掘って、魚を好んで捕食するのである。そこを中心に川沿いに四~七キロメートル移動する習性がある。縄文人にとってカワウソは、食料以上に毛皮にその価値を見いだしていたのかもしれない。このカワウソは、長野盆地でも明治時代まではその生息が確認されている。

 オシドリやカルガモの骨の出土から、こうした淀みは渡り鳥の羽を休める場所ともなったことがわかる。縄文人は毎年冬季に飛来してくる渡り鳥も狩猟の対象にしていたのである。ここには、遺跡からは出土していないが、当然コイ、フナ、ウナギなどが生息していたと考えられる。

 なお、サケ・マス科の脊椎骨は同じ早期の湯倉洞窟遺跡からも発見されている。カワシンジュガイは南佐久郡南牧村志なの入洞穴で、ヒキガエル、イシガイとともに検出されている。カワシンジュガイは現在では戸隠村の鳥居川や大町市の農具川に生息しているが、栃原岩陰遺跡から出土したカワウソやカワシンジュガイは、今では千曲川流域では絶滅してしまった動物でもある。