自然環境の変化

63 ~ 64

花粉分析によって過去の植生や気候が復元され、氷河期から後氷期(約一万年前から現在まで)の自然環境が解明されつつある。それによると、約六〇〇〇年前ごろ(縄文時代前期はじめごろ)までに急激な温暖化の時期があったという。約一万年前に現在より二、三度低かったものが、八〇〇〇年前ころには現在より一、二度ほど低い状態になり、以後急激に上昇して七〇〇〇年前ころには現在より一度ほど高くなり、六〇〇〇年前ころに現在より一、二度ほど高くなったといわれている。ヨーロッパでも二度ほど温暖でかつ湿潤であったとされている。長野盆地で最大規模の後背湿地である「延徳低地」(中野市・小布施町)の六〇メートルボーリングコアの岩相を検討し、各層準における珪藻(けいそう)化石(水中に生息する微生物の化石)を分析したデータ(赤羽ほか1998)によると、五〇〇〇年から六〇〇〇年前ごろをピークに珪藻化石の出現数のきわめて高い層準が認められた。珪藻化石数は気候の温暖期には増加し、寒冷期には減少することが指摘されている。長野盆地においても六〇〇〇年前ごろには気候が温暖であったことが推測される。

 六〇〇〇年前ごろの温暖化現象は海水準の変化に大きく影響した。太平洋側では、関東平野の奥深くまで海水が浸入し、大小の内湾を形成した。これは気候の温暖化により、海水面が上昇した現象で「縄文海進」とよんでいる。現在の東京湾より六〇キロメートルも内陸に入った最奥部の貝塚のひとつとして、栃木県下都賀(しもつが)郡藤岡町の篠山貝塚が知られている。

 気候の温暖化にともなって、西南日本の照葉樹林、東北日本の落葉広葉樹林(ナラ林)という植生分布が定着した。長野盆地では、旧石器時代以降山間部や高原地帯に生活の舞台が展開していた。自然環境の大きな変化は、森林の拡大をもたらし、生業の多様化、居住域の拡大、定住化を引きおこした。

 これまでは長野盆地の縄文時代遺跡の動向は、発掘件数が少なく不明の部分が多かった。少数の発掘資料や採集資料によって、盆地を取りかこむ山間地に遺跡の分布を描いてきたため、盆地平野部には生活の拠点がないとしてきた。こうした遺跡分布が通説として長いあいだ語られてきた。

 長野盆地では、これまでにも沖積地の調査は数多くおこなわれてきたが、地下深く調査する機会はなかった。近年、盆地平野部の地下深くを調査する機会に恵まれ、縄文時代前期以降の居住の跡が平野部に確認されている。縄文時代草創期・早期の遺跡は、飯綱高原(飯綱大池遺跡・大座法師池遺跡など)など高所に分布するものが多い。これらには、岩陰・洞窟などに生活した痕跡(須坂市石小屋洞穴・戸隠村荷取洞窟)がみられるが、竪穴(たてあな)住居などはほとんど検出されていない。自然環境の変化にともなって、長野盆地の縄文人たちは、縄文時代前期のはじめころから山間地や高原地帯から盆地平野部に進出するようになる。現在の千曲川沿いの自然堤防や扇状地面の微高地に生活の跡をたどることができる。

 縄文時代前期以降の遺跡の立地変化は、長野盆地だけにみられる現象ではなく、飯山盆地などでも同じような傾向がみられる。飯山盆地の場合は縄文時代の生活面は長野盆地の地下四、五メートルといった深さではなく、五、六十センチメートルくらいのところで検出されるようである。この検出される深さの違いは千曲川の土砂の運搬力・堆積力、盆地の沈降などの違いに起因するものと思われる。