古環境の復元

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長野県内の縄文文化は、八ヶ岳山麓を中心に語られることが多い。とくに前期・中期の遺跡数の飛躍的な増加は、縄文王国とよばれるゆえんである。八ヶ岳山麓の遺跡は、沢筋にはさまれたやせ尾根上に立地している。それにたいし、長野盆地の遺跡は、まわりの山間地や扇状地に立地し、縄文時代の終わりになって、千曲川沿いの自然堤防に進出したものとみられ、まわりの山々を生活の舞台にし、狩猟を中心に生活するといった縄文人を断片的にイメージしてきた。

 しかし、近年の調査により、従来のイメージが大きく転換することになった。盆地低地部の地表四~五メートル下から、縄文時代のムラが発見されたのである。これはまったく予想しなかったことで、現在わたしたちを取りまく地形や環境とは大きく異なる縄文時代の生活空間が埋没していたのであった。これまでの縄文時代観をくつがえす遺跡の発見によって、生活の舞台としての古地形や古環境の復元が、長野盆地の縄文時代を理解するうえで重要な課題となっている。

 気候の温暖化による森林の拡大によって、長野盆地の低地は落葉広葉樹林におおわれた森を形成し、木の実を豊富に供給したのではないかと推測されている。現在の水田がひろがって見とおしの良い盆地とはまったく異なる景観が復元されるようである。森の拡大にともなって、動物の生息環境も大きく変化したと推測され、イノシシ・シカの骨が低地部の松原遺跡、屋代遺跡群から多量に出土している。

 現在確認されている盆地低地部の遺跡は、屋代遺跡群(更埴市)・石川条里遺跡(篠ノ井)・松原遺跡(松代町)・芹田(せりた)東沖遺跡(芦田)の四ヵ所で、いずれも千曲川・犀川沿いの微高地に立地している。

 中野市と小布施町に広がる延徳低地のボーリングコアの分析(赤羽1995)によると、深度一五メートル付近を境にして、それより上位では泥炭や粘土・シルト、それより下位では砂と粘土・シルトの互層が優勢であった。上位では細粒堆積物、下位では粗粒堆積物からなる岩相の垂直的変化が認められた。この岩相の大きく変化する層準は最終氷期と完新世の境(一万年前後)とされている。またこうした堆積傾向は内陸部の盆地に共通する現象と考えられている。

 岩相の変化は堆積環境の変化をあらわしており、下位の粗粒堆積物は大規模な洪水の堆積物、上位の細粒堆積物は小規模な洪水の堆積物である。最終氷期には大規模な洪水が多く、完新世になると大きな洪水による堆積物が少ないことを示している。また、諏訪湖ボーリング調査による湖底堆積物の花粉化石の分析(安間ほか1990)によると、岩相の変化を境に下位のトウヒ属・モミ属・マツ属優先から上位のコナラ亜属優先に急激に変化するという植生の移り変わりがとらえられている。

 松原遺跡では、深度六~七メートルの急激な岩相変化が見られる層準が最終氷期と完新世の境ではないかとされている。松原遺跡では、一万年のあいだに深さ六~七メートル、延徳低地では一五メートルの土壌が堆積したことになる。しかし、これは洪水による堆積と同時に盆地の沈降の結果としての深度であることを考慮しなければならない。

 堆積物の岩相変化は、長野盆地の古気候・古環境を明確に示すもののひとつである。縄文時代の生活面には、砂礫をふくまない均質なシルト質の土壌が厚く堆積し、縄文時代の暮らしを完全に密閉してきた。

 八ヶ岳山麓の遺跡は、五〇センチメートルから一メートルも掘れば遺構が検出される。また、個々の尾根上のムラは二、三の尾根上のムラと交流しながら、生活や生業の領域をつくり、遺跡群を構成していた。八ヶ岳山麓の縄文時代中期文化は「井戸尻(いどじり)文化」とよばれ、特徴的な地域文化として認識されている。長野盆地の沖積地における遺跡立地は、八ヶ岳山麓と大きく異なっており、その相違は、食糧獲得など生業活動にかかわるものと思われる。

狩猟・漁労・植物採集の三つの生業活動の比重とありかたが異なることが予想される。