長野盆地を一望できる鳥林遺跡(更埴市桑原)では縄文時代早期前半の竪穴住居が二軒、土坑(どこう)(円形や楕円形に人為的に掘った穴)六基が検出されている。長野盆地の低地部に確実な形で生活の拠点が進出するのは、前期になってからである。
石川条里遺跡では、地表下約二・五メートルの地点から前期前葉の単一時期の集落が検出されている。千曲川左岸の埋没した縄文生活面の地形を遺物包含層の標高から復元すると、中央北側をピークとする小規模な凸凹をもつ自然堤防に縄文遺構が立地する。自然堤防中央部の平坦(へいたん)地よりも縁辺にあたる傾斜のゆるやかな南面と西面の地点に、三軒の竪穴住居、五基の土坑、ピット群(柱穴群)、焼土跡などが分布する(図10)。
プラントオパール分析(過去に堆積した土壌中にふくまれるイネ科植物の葉にあるガラス質細胞の微化石であるプラント・オパールを検出し、堆積した当時の植生や栽培植物を復元・判別する分析法)によると、縄文微高地面にはタケ亜科が多量にみられ、古墳時代以降はヨシ属とタケ亜科がみられ、ヨシ属の比率が高いという。このことから、縄文集落が展開したころは乾地であり、その後乾地と湿地が繰りかえされていたと推測される。沖積低地のなかにあって、高燥な環境を保持できる場所として縄文集落が営まれたのであろう。
石川条里遺跡の縄文前期前葉の集落は、継続的居住がみられず、一時期のきわめて短期に営まれた遺跡とみられる。
松原遺跡は、千曲川右岸の中州状の自然堤防に立地する前期中葉から後期までの断続的な集落である。松原遺跡周辺の現在の集落をみると、興味深いことに気づく。
更埴市土口(どぐち)は千曲川の攻撃面にあたり、たびたび洪水の被害にあっている。土口の北東に位置する岩野(松代町岩野)は薬師山の北側の山かげに洪水をさけて立地する自然堤防集落である。また、松代町西寺尾や柴(しば)は現河道と旧流路にはさまれた自然堤防に立地する。松代町小島田(おしまだ)・牧島も背後に旧河道をひかえた自然堤防集落である。これらの千曲川右岸集落の立地する自然堤防は、いずれも紡錘(ぼうすい)形や楕円形の形態を呈している。千曲川の旧河道は、盆地東の山脚をなぞるように流れていた。洪水等の流路の変更にともなって西に移動する。河東地域はこうした中州状自然堤防が多数形成されている。ふだん目にするこれらの集落景観は、縄文時代の松原集落を引き継ぐものであろう。何千年もの時を越えて、自然と人間の戦いと知恵のありさまを集落占地に見ることができる。
松原遺跡の前期中葉のムラは、金井山山麓西斜面部に立地する。竪穴住居跡四軒・焼土跡四〇基余りなどが検出されている。これらは同時期の遺構ではなく、断続的に営まれた集落であった。
いっぽう、盆地西部の篠山山系のゆるやかな東斜面上には鶴前遺跡(篠ノ井塩崎)が存在する。鶴前遺跡からも前期中葉の竪穴住居が一軒検出されている。
松原遺跡・鶴前遺跡ともに遺構の数や内容からして、長期的に継続したムラではなく、一時的な生活の場として利用されたものと考えられる。
松原遺跡では、前期末葉から中期初頭になると、前期中葉の斜面部から中州状の自然堤防平坦部に生活エリアの中心が移る。この時期の遺構数は、前期末葉段階で八軒、中期初頭段階で一四軒の竪穴住居、焼土跡一四〇基、土坑一〇三基ほかが検出されている(図11)。調査区内において、前期末葉の集落は東側、中期初頭の集落は西側に展開している。竪穴住居は多くが重複しているため、集落は一時期ではなく、いくつかの時期にわたって展開したと思われる。前期末葉から中期初頭にいたるまで一貫して平坦部を生活領域の中心としており、前期中葉の山麓斜面部の立地とは対照的である。
このあと集落は途切れるが、中期末葉になるとふたたび同じ生活エリアを広げて集落が展開する。松原遺跡の集落は、四方を旧河道の窪地(くぼち)に取りかこまれた中州状の自然堤防であった(図12)。