縄文的生活の定着

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縄文時代草創期の遺跡は、須坂市石小屋洞穴・戸隠村荷取洞窟などにみられ、長野盆地では、松代町大室の村東山手遺跡に土器片のみが出土している。早期になると、更埴市の鳥林遺跡に小規模な集落が営まれる。前期になると石川条里遺跡に三、四軒の住居を単位にして集落が形成される。それ以前の遺跡立地とは大きく異なる。小規模な集団によって短期に営まれた集落であり、移動を繰りかえすなかで営まれた遺跡であると考えられる。石川条里遺跡は低地への進出の第一歩であった。石器群の分析によると、採集具・調理加工具に比し、狩猟具の比率が低い。植物加工具の増加、遺跡の立地環境という点から考えると、非定住的な狩猟から定住的な生業活動に力点がおかれたことが想定される。

 温暖化にともなう自然環境の変化は、縄文人にとって自然環境への適応をさらに深めることとなり、移動生活の頻度が低減することになる。複数の竪穴住居は、こうした移動性の低減に呼応する定着性を背景として構築される。石川条里遺跡では、竪穴住居とともに掘立柱(ほったてばしら)建物と推定される柱穴群が検出されている。定着性の証左として注目すべき遺構である。しかし、竪穴住居内の炉の欠如、尖底土器の使用などからすると、まだ定着性の低い生活がうかがえる。

 松原遺跡の集落は、前期末葉段階と中期初頭段階とで明確に集落空間を異にしている。前期初頭に定着的生活が始まり、この松原遺跡の集落段階にいたって、安定した集落をつくるようになる。その典型的な形態が環状や馬蹄(ばてい)形に展開する集落である。墓地のまわりに住居を配置する空間デザインは、定住性を基盤にした縄文人の世界観のあらわれであった。

 前期初頭の土器は尖底土器であったが、定住性の進展に呼応して前期前葉から土器の底は平らに変化していく。八ヶ岳山麓の諏訪郡原村の阿久(あきゅう)遺跡(前期前葉)では、竪穴住居と掘立柱建物などで構成された大規模な集落が展開している。長野盆地では、現在までのところ、前期後半の段階(松ノ木田遺跡)以降に定着的な集落が営まれたようである。

 縄文時代早期末葉から前期初頭の自然環境の変化により、日本列島内での動物相や植物相が定まってくる。東日本の内陸部には、暖温帯落葉広葉樹林(コナラ・クリなど)が形成される。こうした森を背景に、クルミやドングリ類、クリ、トチなどの堅果類や球根類が採集され、食用にされた(図13)。トチやドングリ類は、アク抜き技術の開発により、主体的な食糧資源となった。中野市栗林遺跡では、ドングリ類の木組み水さらし加工場や貯蔵穴が検出されている。松原遺跡では、前期末葉から中期初頭期の集落でシカやイノシシが捕獲され、食されている。この時期の石器組成を見ると、石器全体のうち、石鏃などの狩猟具が二三パーセント、植物性食糧の採集調理加工具が約六三パーセントを占めている。植物食の採集を主体にし、狩猟も少なからずおこなっていた生業形態がとらえられる。長野盆地では前期後半以降に縄文的生活の定着がみられる。


図13 縄文人の生活サイクル