石川条里遺跡や松原遺跡は、盆地低地部の千曲川沿いの自然堤防上に立地するこれまでまったく知られていなかった遺跡である。盆地の東部から南部、北部地域は河川が山地を開析して形成した扇状地がたいへん発達している。若穂地区の宮崎遺跡(後期から晩期)は保科扇状地扇端部に、対岸の浅川扇状地扇頂部には松ノ木田遺跡、浅川端遺跡、牟礼バイパスA遺跡などが分布している。いっぽう、盆地西部は断層崖が走っているため、扇状地は形成されていない。
浅川は谷口から東南方向に放射状に流下する。遺跡は幾筋もの河道のあいだの微高地に立地する。松ノ木田遺跡は、浅川左岸に沿う北西から南東に帯状に延びる微高地に立地し、前期後半から後期までの断続的な集落が営まれている(図15)。前期後半の集落は微高地先端部縁辺に展開する。谷口に近いところでは、後期前半の敷石住居などが検出されている。この微高地は下部から上部に向かって、前期・中期・後期の各段階において、断続的に集落選地がおこなわれたと思われる。しかし、松ノ木田遺跡の前期集落が、谷口側にどう展開していたのか詳細は不明である。
松ノ木田遺跡調査内の南北に連なる竪穴住居群の中央に太い溝が東西に走る。この溝を境にして、北と南の集落とに区別される(図14)。北の集落は、竪穴住居の重複があまりみられない。土坑もまばらな分布状況を示している。南の集落は重複がはげしく、土坑の数も多い。北と南とでは、集落構造に違いがみられるようである。
南北の集落は、出土土器から見ると、ほとんど時期的な違いはみられない。ほぼ同時期に、二、三軒ほどの住居が存在したと思われる。また、調査地内には中期後半の住居も二軒検出され、中期後半段階の集落の一端がうかがえる。
また、浅川右岸沿いの浅川端遺跡では前期前葉の住居一軒、土坑一基が、浅川扇状地左翼部の牟礼バイパスA遺跡では、前期前葉の住居一軒が検出されている。
浅川扇状地では、縄文人の平野部への進出の足跡を前期前葉段階の各遺跡にたどることができる。
裾花川扇状地の扇頂部にあたる市街地西部では、裾花川に沿って数段の河岸段丘が形成されている。その左岸高位段丘の縁辺部に立地するのが旭町遺跡(現長野市立長野図書館)である。中期後半の住居二軒、埋甕(うめがめ)、土坑などが検出されている。植物質食糧の採集具である打製石斧が大量に出土した。埋甕のなかからは同一の母岩からつくられた未使用の打製石斧が埋納状態で出土した。
裾花川右岸の最高位段丘である安茂里平柴に立地するのが平柴平遺跡である。後期前葉の住居九軒(敷石住居七軒)が検出されている。
縄文時代前期前葉以降、扇状地や扇状地を刻む段丘にも集落を営み、多様な生業活動をおこなっていたと思われる。