身体を飾った縄文人

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縄文時代に先行する旧石器時代の遺跡からも、装身具は検出されている。北海道湯の里四遺跡では、墓坑と推定される穴から小玉類五個が出土し、日本最古の装身具をもつ墓とみられている。しかし、旧石器時代においては、日本では装身具と考えられる遺物の出土はきわめて少ない。

 縄文時代には、時期や地域によって材質や形態が異なる多様な装身具が用いられた。これらの装身手段は、髪・耳・頸(くび)~胸・腕・指・腰・足などの身体部位に装身具を着用することである。このほかに、抜歯・叉状研歯(さじょうけんし)(切歯に刻みを入れる特殊な加工)・入れ墨など、身体そのものに加工・変形を加える場合もある。

 頭部の髪には、髪飾りとして漆塗りの竪櫛(たてぐし)がみられる。飯山市宮中遺跡の六号石棺墓(縄文時代後期)では、竹製朱塗りの竪櫛が頭部から出土している。

 耳飾りは、前期に全国的に分布する石製玦状(けつじょう)耳飾りと後期末から晩期に発達をみる土製耳飾りがある。玦状耳飾りは、C字形を呈する環状の切れ目から孔をあけた耳たぶに通して垂下した、ピアス状の耳飾りであった。この耳飾りの素材には、滑石や蛇紋岩が用いられた。土製耳飾りは、孔をあけた耳たぶに挿入したものであった。

 玦状耳飾りは、浅川地区の松ノ木田遺跡から三〇点余りが出土している(図18、口絵参照)。しかし、完形品の玦状耳飾りは一点のみであった。分析した川崎保によると、松ノ木田遺跡では、玦状耳飾りの破片を転用した垂飾り(勾玉(まがたま))がきわめて多いと指摘されている。また、製品だけでなく、未製品もあることより、玦状耳飾りを素材にして垂飾り(勾玉)を生産していたのではないかと推測している。これらの製品は、頸から胸を飾ったと思われる。


図18 松ノ木田遺跡の装身具 長野市埋蔵文化財センター提供

 土製耳飾りは、若穂保科の宮崎遺跡三号石棺墓(縄文時代後期)から出土している。頭骨左耳のところから検出され、着装していたのは、壮年女性であった。飯山市宮中遺跡の一〇号石棺墓からは、土製耳飾り二点、松本市エリ穴遺跡からは、二〇〇〇点をこえる土製耳飾りが出土している。

 旭町遺跡のタカラガイ形土製品は、径約一メートルほどの土坑のなかから出土している。墓坑であったと推測され、このタカラガイ形土製品は、生前の着用品(ペンダント)だったと思われる。

 前期前葉の石川条里遺跡では、玦状耳飾りと管玉(くだたま)が出土し、北信最古の装身具類である。松原遺跡の前期中葉装身具は、玦状耳飾り・管玉(頸~胸飾り)・楕円形の垂飾り(胸飾り)が出土している。前期末葉から中期初頭の装身具は、玦状耳飾り・「の」字状石製品・斧状(おのじょう)垂飾り・異形垂飾りなどが出土している(図20)。近年の研究では、こうした石製装身具をセットとしてとらえることで、単に身体を飾るのではなく「ある一定の人びとが役割、性差によって装着する装身具の種類が異なっていた」(川崎 1998)と集団のなかでの位置づけが試みられている。


図19 装身具着装者の時期別・地域別と性差・による着装状況
(片岡1983、春成1985・1997、岡村1993をもとに作成)


図20 松原遺跡の装身具 (長野県埋蔵文化財センター 1998)

 大阪府藤井寺市の国府遺跡(前期)からは、三四体の人骨が検出され、このうち耳飾りを装着していたのは、六体であった。栃木県宇都宮市の根古谷(ねごや)遺跡(前期)では、一七九基の墓坑のうち、装身具をもつ墓坑は四基であった。群馬県安中市の中野谷松原遺跡(前期)では、七〇基ほどの墓のうち、玦状耳飾りをもつ墓は二基であった。

 このように装身具が検出された墓坑は、全体のうちのごくわずかであり、装身具をつける人とつけない人の区別があったようである。また、耳飾りをつける人、首飾りをつける人といった装身具の種類の違いもあったようである。墓坑出土の装身具のありかたをみると、装身具をつけた人は、集団のなかで特定の人物だったことを物語っている。しかし、縄文時代が階層社会であったか否かについては、慎重な検証が必要であろう。

 縄文時代前期になると、玦状耳飾りなどの多様な石製装身具が九州から北海道まで広がりをみせる。縄文時代前半期の装身具は、特定の素材、色調、光沢、形態などで共通している。縄文社会のなかで、ある共通認識(社会原理)をもって、装身具は装身されていたと思われる。これは、この時期に定住生活が始まったことに起因する縄文人の精神活動・習俗・交易圏の様相を如実に示すものとしてとらえられる。


表2 装身具着装者の時期別・装身具別統計

 また、装身具の時期別と性差による着装状況を概観したい。表2は、埋葬人骨のうち装身具を装着し、かつ性が明確な例を集積したものである。この表によると、縄文時代の早期は、装身具はほとんどみられない。前期にいたって、耳・首から胸・手首から腕を飾る装身具がみられるようになる。そしてこれらは、女性のものであった。中期になってもこの傾向は変わらないが、一部男性が身につけるようになる。後期になると大きく様相が変わり、髪飾り・耳飾り・頸~胸飾りをつける男性が増えてくる。晩期になると、腰飾りをつける男性が多くなり、装身具の全体数のうえでは、男性が女性を上まわるようになる。また、幼少児も装身具をつける例が晩期には急激に増加する。縄文時代の前半期(早期~中期)には、女性が装身具(耳飾り・腕飾り)をつけ、後半期(後期~晩期)になると装身具をつける男性が女性より多くなる。図19の地域別状況をみると、北海道・東北・関東地方では、男女の装身具装着の優位性はほとんど差がみられない。中部地方(とくに東海地域)では、晩期における男性の装着の優位性がみられる。近畿地方を介在して、中国・九州地方は、東日本の傾向とは異なり、依然として装着女性の優位性がみられる。

 これらのうち、耳飾りは縄文時代特有の装身具で、弥生時代には引き継がれなかった。