生業形態の変化

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縄文時代の生業は、一般的には、狩猟、漁労、植物採集の三つの生産活動によって支えられていた。これらの生産活動は日本列島のなかで地域ごと、時期ごとに比重のかけかたが異なり、自然環境とのかかわりや生産技術の進歩が道具の器種や組み合わせ(石器組成)に反映された。縄文時代は、一万年にわたるゆるやかな発展のなかで、各時期ごとに地域性を顕著に示している。そうした地域性は土器や石器にみることができる。石器は、直接の生産用具であり、日々の生活を支えるうえで重要な道具であった。近年の調査により、縄文時代には木製品の加工技術が高度に発達したことが知られている。木製品の加工技術には、石器を必要とし、また石器は木製品と組み合わせて一体の道具として用いられた。

 縄文時代に直接生産活動に使われた石器は多種多様であるが、用途別に狩猟具(Ⅰ類)、漁労具(Ⅱ類)、植物性食糧加工具(Ⅲ類)、加工具(Ⅳ類)に分けられる(図21)。狩猟具はシカやイノシシを狩るための石鏃(せきぞく)や石槍(いしやり)、漁労具は魚網につける石錘(せきすい)・土錘がある。植物性食糧加工具は採集用の打製石斧(せきふ)・大形刃器、ドングリなどの製粉具である石皿(いしざら)・台石・磨石(すりいし)・凹石(くぼみいし)・敲石(たたきいし)、調理具の石匙(いしさじ)。加工具は石・木・骨・皮革などに働きかけて製品を作りだすための道具で砥石(といし)・磨製石斧・石錐(いしきり)・小形刃器などがある。これらの石器は、じっさいには用途別に単純に分けられるものではなく、複合した用途に使われたと思われる。

 長野盆地を中心にして、石器組成から生業形態を概観してみよう。向六工(むかいろっく)遺跡(東筑摩郡坂北村)は、西条盆地の谷底平野に望む段丘に立地し、早期後半の竪穴住居五軒、焼土跡八ヵ所、土坑七基などが検出されている。向六工遺跡では、石器組成のうちⅠ類の石鏃と石槍が六八パーセント、Ⅲ類が七・一パーセント、Ⅳ類が二五パーセントを占めている。生業の大部分を狩猟活動でになっていたことがわかる。Ⅲ類のうち、特徴的な石器が穀摺(こくずり)石とよばれる特殊磨石(すりいし)で、中部高地の早期にみられるものである。

 前期になると、石川条里遺跡ではⅠ類の石器が激減し、それにたいしてⅢ類の石器が大幅に増加する。Ⅳ類の石器も同時に増加する。このⅢ類の石器が組成比率の大きな比重を占めるようになる傾向は後期まで継続する。前期以降には、狩猟の比率が低下し、植物採集加工具が目立って多くなる。

 中期初頭になると、松原遺跡では採集具である大形刃器や打製石斧が普及し、森林資源に働きかける木工具(大形や小形の磨製石斧・石錐・小形刃器など)の器種も増加する。こうした生産・加工具としての石器の充実化は、生業活動の活発化や安定化を示すものと思われる。

 後期前葉になると、松原遺跡ではⅢ類の石器が他の類の石器を凌駕(りょうが)する。晩期になると、宮崎遺跡ではI類が増加し、全組成のうち四五パーセントを占め、前期以降の石器組成とは違った傾向になっている。狩猟の対象がシカやイノシシだけでなく、水鳥などにも広かったことも考えられる。

 また、前期中葉(松原遺跡)では、Ⅱ類の漁労具である石錘が二点、中期初頭(松原遺跡)では、石錘が一点出土している。長野盆地では、前期から中期にかけて生業形態に漁労活動が加わり、多様化したことが知られる(図21)。


図21 遺跡の時期別石器組成

 早期から晩期までの石器組成をみると、前期段階での狩猟具の激減と植物性食糧採集加工具の増加は、食生活の安定をもたらし、その結果として定住化をうながしたのであった。石川条里遺跡にみられる縄文人の長野盆地への第一歩は、まさに前期社会における胎動であった。また、定住化による労働時間の蓄積は森林資源への働きかけをさらにすすめ、精神文化の発展や社会の安定化にいたったのである。