縄文時代の社会では、五、六軒の竪穴住居に居住する定住集団を単位とする複数の集団群が数キロメートルくらいのエリアを生活領域としていたと考えられている。またこの生活領域は相互に血縁的、地縁的原理で結合して、さらに広域的な地域圏を形成する。こうした地域圏が鎖のように連鎖して日本列島全体に展開している。地域圏は、各時期ごとに拡大縮小し、地域性を顕現する。とくに縄文時代中期には、多数の地域圏が形成され、各種の物資はこの範囲内を流通する。
広域的な地域圏を越えて流通する物資のうち、一般的なものは縄文土器である。文様や土器の胎土の違いなどから在地系の土器と明確に区別できる。とくに縄文時代前期や中期において土器の交流が盛んにおこなわれる。
中部高地では、前期末葉から中期初頭期においての西日本系土器の搬入は、これまで伊那谷や八ヶ岳山麓で数多く確認されていた。北信地域で松原遺跡・お供平遺跡(信州新町)などに断片的に確認されている(図22)。西日本系土器は、薄手で施文(せもん)方法、器形や胎土が在地系の土器とは異なるものであった。こうした他地域からの搬入は、人から人への伝達方式や直接もちこむ方式が考えられるが、縄文人の行動力や、地域圏を越えた情報ネットワークの広さをうかがうことができる。更埴市屋代遺跡群の中期後半の集落では、関東系・東北系・在地系の土器が一時期に使用されている状況が確認されている。
また、海へのあこがれか、内陸の長野盆地でタカラガイを模した土製品が出土している。タカラガイは、暖流系の貝類で、現生種は四国・房総半島以南が主たる生息域となっている。現在までに、九〇点をこえるタカラガイ製品(タカラガイ・タカラガイ加工品・タカラガイ形貝製品・タカラガイ形土製品)が日本列島内で出土している。縄文時代の全般にわたって、広範な地域にタカラガイ製品が普及していたようである。
貝製品は、背面部を切りとり、内外唇(しん)のある腹面部を用いるものと腹面部を縦に半割したものなどがある。県内では、南佐久郡北相木村の栃原岩陰遺跡から早期に属するタカラガイの加工品が二〇点近く出土している。
旭町遺跡では、中期末葉のタカラガイ形土製品が出土している。貝製品のように切りとられた腹面部ではなく、貝全体を忠実に模している。穴が貫通しているのでペンダントとして用いられたのであろう。国内で現在までに、土製品は五例ほど知られている。貝製品の東方への伝播(でんぱ)ルートとして、日本海流ルート(太平洋沿岸経路)と対馬海流ルート(日本海沿岸経路)が考えられている。
これらの貝製品は、民俗学的な資料から安産や豊穣(ほうじょう)を祈る護符、呪術的霊力を誇示した装身具などと考えられている。南海産の珍しい貝とともに遠い他地域の新鮮な情報に胸をときめかしたのであろうか。
縄文時代の石器は、その種類ごとに石材を使い分けることが一般的である。石鏃、石錐、石匙などには黒曜石、頁岩(けつがん)などが使われる。打製石斧には粘板岩、凝灰岩(ぎょうかいがん)、安山岩、硬砂岩などが、磨製石斧には、蛇紋岩、流紋岩玄武岩、玢岩(ひんがん)などが使われる。装身具(垂飾りや耳飾りなど)には、滑石(かっせき)、翡翠(ひすい)、玉髄(ぎょくずい)、蛇紋岩などが用いられる。縄文時代前期以降、石器の種類が増えるのにしたがい、石器の形態と加工技術の結びつきがいっそう強くなる。
石器石材の調達は、遺跡付近の路頭や川原の転石などを採集して用いる場合がまず想定できる。つぎに、原産地の限られた良質な石材は、地域圏を越えて流通する。
黒曜石は、信州産(和田峠・霧ヶ峰・麦草峠など)が関東・中部・北陸・東北地方にまで流通し、各地の集団で利用されている。遺跡から出土している黒曜石の原石をみると、こぶし大くらいの大きさが一般的である。したがって、黒曜石は、こぶし大くらいの大きさで流通していたようである。
粘板岩は、打製石斧の石材として一般的に用いられる。頁岩よりさらに剥離性に富んだ石材である。打製石斧は、普遍的にみられる器種のため、遺跡近くで調達していたと考えられていた。しかし、最近の千曲川流域の石器石材の研究(川崎 1998)によると、いくつかの石斧用石材のうち、千枚岩質構造をもつ粘板岩(片理にそって薄板状に割れやすい性質をもっている石材)が抽出されている。この石材は地質学的観点から関東山地の先第三系の岩石であり、秩父(ちちぶ)山系起源のものと分析されている。千枚岩質粘板岩は、千曲川流域の各遺跡で打製石斧用石材として用いられている(図24)。長野盆地では、旭町遺跡、浅川扇状地遺跡群などで、この種の石材が用いられているのが確認されている。生活領域圏および地域圏を越えて、石器用石材が流通するということは、石器の形態・加工技術・石材の三者の強い結びつきの結果と思われる。石器の器種ごとに適した石材を選ぶという強い選択意識がうかがえる。
打製石斧は土掘り具であったが、磨製石斧は樹木の伐採や木工具など形態に応じて使い分けられた。したがって、磨製石斧は、打製石斧に比して硬質で緻密(ちみつ)な石材が用いられている。前期後半以降主体的にみられる磨製石斧は、大小の作り分けがあり、手斧やノミなどの加工具として用いられた。この種の磨製石斧の石材には、蛇紋岩、流紋岩、玄武岩などが使われた。これらのうち長野盆地周辺で使われた蛇紋岩は、新潟県姫川流域などの北陸地方が原産地と推定されている。富山県下新川(しもにいかわ)郡朝日町の境A遺跡では、磨製石斧の製品一〇三一点、未製品三万五一八二点が出土し、蛇紋岩製磨製石斧の製作跡が検出されている。大規模な磨製石斧供給センターだったと考えられる。境A遺跡は、縄文中期から晩期にいたる約三〇〇〇年のあいだ、途切れることなく栄えた日本海域物流センターの中核であった。
また、おしゃれな縄文人を飾る装身具には、多種多様あるが、石製のものに、滑石、硬玉(翡翠)、玉髄、琥珀(こはく)、蛇紋岩などの石材が用いられている。滑石、翡翠、玉髄の石材は、新潟県姫川流域が原産地である。原産地に近い大町市や北安曇郡松川村では、滑石製装身具の製作跡も検出されている。これらは、特定の石、色調、光沢という選択原理のもとに石材が流通したものと考えられる。
縄文時代の広域的なモノの交流は、地域圏を越えて往来する情報ネットワークの産物であった。さまざまなモノの交流は、縄文時代全般を通じてみられる。縄文社会は、生活領域や地域圏のなかで閉鎖的ではなく、動的で開放的な社会であったことが想定される。モノの交流は、単に一時的な流行や偶然性のものではなかったのである。