縄文時代前期に盆地の低地に進出した縄文人は、中期に入るとふたたび山間地にも進出するようになる。この傾向は長野盆地だけでなく飯山盆地その他でもみられる。
縄文時代前期以降の温暖湿潤な気候は、中期に一時的に寒冷な気候になったといわれる。そうした気候の変化と関係があるのかもしれない。
市域の西部山地では、縄文時代前期の痕跡は散見する程度であった。しかし、縄文時代中期になると、小川村の筏(いかだ)遺跡、成就(じょうじゅ)遺跡、信州新町の上条遺跡、牧之内遺跡、大岡村の根越遺跡、長野市の安庭(やすにわ)遺跡(信更町)、麻庭(あさにわ)遺跡(小田切)、吉原遺跡(信更町)などにみるように遺跡がにわかに多くなる。これらは、発掘された遺跡が少なく、遺跡の内容はかならずしも明確ではないが、立地環境から察すると規模の小さい遺跡であろうと推察される。
縄文中期には、盆地低地部の松原遺跡や屋代遺跡群等の規模の大きな集落を中核として、山地部の小遺跡を取りこむ形で生活領域が拡大したのではないかと考えられる。小川村筏遺跡では狩猟道具の石鏃よりも土掘り具としての打製石斧が圧倒的に多く、沖積低地と同様の傾向を示している。これまで山地部の遺跡は狩猟を中心とした生活が漠然とイメージされてきた。しかし、遺跡の立地環境が異なっても縄文的生活が営まれていたことがわかる。筏遺跡では、狩猟具が七パーセント、植物性食糧採集加工具が六三パーセント、伐採・加工具が三〇パーセントという石器組成比率である。中期初頭段階の松原遺跡の石器組成とくらべると、植物性食糧採集加工具の割合が格段に高い。立地環境による生業(狩猟・漁労・植物性食糧採集加工)の比重差だろうか。低地部の中核的な集落と山地部の遺跡との有機的な関係については、今後の課題である。