明らかにされた縄文人とその生活

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オリンピック道路建設にともなって発掘調査された中野市栗林遺跡では、今まで県内で知られていなかった縄文時代後期のムラの姿が目の前にあらわれた。段丘上に家々が並ぶ居住域があるが、その下の低湿地には居住生活を補完する作業域ともよぶべき遺構群が発見された。居住域の一~二メートル下の低地には段丘崖からわきでる湧水をためる二×一・六メートルの箱状の木組みがあった。このなかからは縄文後期の土器とともにトチの実の皮やオニグルミの殼(から)、さらに底板の下からは製粉に使用する石皿(いしざら)が出土した。これはトチの実やドングリのアクを抜いたり、クズやワラビの澱粉を沈殿させる「水さらし場」であった。

 そこからさらに下った湿地には直径一・五~二メートル、深さ〇・三~一メートルの貯蔵穴が七八基も発掘された。現代でも、クリを砂のなかに埋めて保存する砂栗があるように、ヤマ(シバ)グリ、オニグルミ、トチなどの木の実を地中に蓄える室(むろ)であった。木の実を水がわきでるような地中の穴に保存することで、鮮度が保て、なによりも実を食い荒らすクリシギゾウムシなどの虫が死んでしまうのである。

 報告書では貯蔵穴の貯蔵量の推定計算をしており、径一三〇センチメートル、深さ一二四センチメートルの第七三号貯蔵穴の場合、貯蔵量は八二三リットルで、クルミは五万個になる。成人一人あたり一日二〇〇〇キロカロリーを必要とすると仮定すると、一人では三八〇日分のカロリーに相当し、一家族六人で単純計算すると六三・三日分のカロリーとなるところから、一基の貯蔵穴で一家族二ヵ月のカロリー摂取が可能であるとされた。

 こうした「水さらし場」は、従来は調査の対象からはずれていた低湿地の発掘がすすむとともに各地で発見されている。新潟県寺前遺跡、埼玉県赤山陣屋遺跡、栃木県寺野東遺跡などはその例であり、岐阜県飛騨の縄文晩期のカクシクレ遺跡からは九〇×一〇〇センチメートル、深さ三〇センチメートルの水さらし場が発掘され、そのなかにトチの実やオニグルミが詰まっていた。

 また、新潟県から東北地方にかけては、入り口が五〇センチメートル、底面径が一メートル、深さ一メートルのフラスコ状の貯蔵穴が発掘されており、新潟県新発田市の上車野E遺跡では住居跡の床下から三基のフラスコ状貯蔵穴がみつかり、なかに、オニグルミ、ヤマグリ、トチの実が入っていた。これは、まさに家ごとの「地下食糧倉庫」であった。このなかの夏は温度一五度前後、湿度は九〇パーセント以上を保ち、乾燥する冬でも木の葉の蓋(ふた)をしておくと、温度二度、湿度が八二~九三パーセントである。

 栗林遺跡で、居住域と作業域とがひとつの遺跡のなかでセットで発見された意義は大きく、今後の遺跡の発掘調査に新たな方向性をあたえた。また、縄文人が具体的にどのように水を利用したかは不明な点が多かったが、水を生活のなかに活用した水利技術、木材加工のありかた、食糧の貯蔵と加工技術のありかたを具体的な遺構と遺物という考古資料から実証した例といえる。

 さらに、長野自動車道建設にともなって発掘調査された東筑摩郡明科町の北村遺跡では、地表下五メートルの地点から、縄文後期の四六九基の墓坑と人骨三〇〇体が発掘された。その近くには石を敷いた敷石住居跡も発見された。居住域に隣接した集団墓地があらわれたのである。

 この大量の人骨は詳細な形質人類学的な研究がなされ、体型、性別、年齢、病歴等が明らかにされた。それによると、北村人の男性の平均身長は一五七・九センチメートル、女性は一五一・二センチメートルで、男女比は男四一・八、女五八・二パーセントであった。年齢別の割合は二〇歳以下が二五・三パーセント、熟年と老人が四〇パーセントであった。出産痕は一六~二〇歳の女性の骨盤に観察され、初産の年齢は二〇歳前後で、離乳期は二歳前後と判断された。さらに、北村人には骨折がなく、狩猟などによる死亡や外傷も少なかった。一例だけ外耳道骨腫(こつしゅ)が観察されたことから、潜水などによる漁労が想定された。また、歯の摩耗は少なく、虫歯は〇・一六本できわめて少なかった。全体に北村人は身長が高く、頑丈で、とくに下肢骨が丈夫で、女性の大腿骨の殿筋隆起の発達がいちじるしいことから、背後にそびえる急峻(きゅうしゅん)な山の上り下りに関係すると考察された。

 さらに、その人骨から組織蛋白(たんぱく)質であるコラーゲンを抽出して、炭素・窒素同位体分析を通じて、その人が生前に食べた食生活を復原しようとする研究がすすめられた。その結果、北村遺跡の縄文人の蛋白源はコナラ・トチ・ミズナラ・ヤマグリなどの堅果類が中心であり、シカ・イノシシや川魚などの動物性の蛋白は少ないことが明らかとなった。これを他地方の分析例と比較してみると、北海道の縄文人は海獣や大型魚類、東北の縄文人は草食獣や海産魚・貝類が中心であった。これらとの対比から、長野県に住んだ縄文人の多くは木の実などの豊かな落葉広葉樹の幸に支えられていたことが科学的に証明されたのである。つまり、北村という内陸縄文人と海岸部の海浜縄文人との食生活の相違が具体的に明らかにされたのであった。

 このように、最近全国各地で低湿地遺跡の調査例が増すにつれて、従来は背の低い草木が繁茂するだけの湿地と考えられていた低地や谷は、ハンノキ・ヤチダモからなる湿地林やスギ林、その縁辺はトチノキ・カエデ・ケヤキなどの多種の樹木からなる森林であったということが明らかになってきた。さらに、集落の周辺には、クリの木を移植して管理栽培したような、わずかとはいえ人間の手が自然を改変した人間干渉域のような場所も形成されていたようである。

 このように縄文人を取りかこむ自然環境は山地の森だけではなかった。縄文時代は自然環境がはぐくむ資源に基本的に依存していたため、縄文人の居住域とその周辺の人間干渉域で、人間と環境の相互作用に破綻(はたん)をきたすことがなかったのである。