縄文後・晩期の千曲川流域は、県内のほかの山岳地域は遺跡数が減少するのに反して、遺跡数が増加して、地域性が顕著になる。遺構では敷石住居・配石遺構・石棺墓などの石を用いた施設や、第二の道具といわれる石棒・石剣などの儀器的な遺物が多くなり、人骨にも抜歯がほどこされるなど、全般的に信仰や葬制にかかわる遺構や呪術(じょじゅつ)的な雰囲気が強まり、こうした傾向は千曲川流域に卓越してみられるようになる。
若穂の宮崎遺跡は全国的にも縄文晩期を代表する遺跡である。保科扇状地の扇側部を流れる赤野田川の右岸に位置し、竪穴住居、敷石住居・配石遺構、石棺墓と、銛(もり)やサメの背骨を加工した耳飾りなど海とのかかわりの強い資料や、アスファルトも出土している。
千曲川流域に産出しない天然資源は、他の地域から運んでくるしかなかった。磨製石斧の材料となる古生代の蛇紋岩、耳飾りの材料となる滑石、そして縄文から古墳時代にかけて装飾品の素材としてもっとも珍重された翡翠などは、はるか姫川流域から千曲川流域に運ばれてきている。同じ千曲川流域でも長野県域には産しない石器の素材となる頁岩は、新潟県の中津川や魚野川流域から善光寺平まで運ばれてきている。
また、石鏃を矢柄(やがら)に固定したりする接着剤のアスファルトは、新潟市周辺の油田地帯や長野市の浅川真光寺から宮崎遺跡などにもたらされている。また、東北の亀ヶ岡文化の影響をうけた土器や土偶(どぐう)がこの流域にもたらされている。
故郷の千曲川で生まれたシロザケ・サクラマスの稚魚は、日本海に出てからはるかアラスカ沖まで回遊する。やがて、母川(ぼせん)回帰本能によって、サクラマスは三年前後で生育して五~七月に溯上(そじょう)し、シロザケは四年前後の回遊で成熟して九月から一月にかけて、日本海からふたたび信濃川、千曲川へと溯上してきた。水深三〇センチメートルぐらいの伏流水のあるきれいな砂礫質の河床をめざして溯上しつづけ、産卵するのである。
千曲川とその支流の河川は淡水魚の宝庫といわれ、本州にすむほとんどの魚が生息し、イワナ・ヤマメ・カジカ・アブラハヤ・コイ・フナ・ニゴイ・ウグイ・オイカワ・ウナギ・ナマズ・ドジョウなど約五〇種に達するという。縄文時代において、千曲川は、流域に住む人びとにとっては、狩猟より危険の少ない、貴重な動物蛋白源を供給する食料の宝庫でもあった。
長野県内の水系別にみた縄文遺跡の数は千曲川流域一四五八、犀川流域三八三、木曽川流域一五八、天竜川流域一一二三遺跡で、千曲川流域に立地する遺跡がもっとも多い。千曲川は東北信地方を貫流し、流域の現市町村は八市一三町一五村にのぼる。ここに位置する一四五八遺跡を川との関係でもう少し精度を高めて遺跡立地をみると、千曲川本流とその支流の河岸から一〇〇メートル以内に立地する遺跡は本流七九、支流一五二、計二三一遺跡で、全遺跡の一五・三パーセントを占めている。
縄文前期・中期の千曲川流域の漁労については、最近、更埴市や長野市の千曲川の自然堤防の四~五メートル下から、縄文時代の前期末から中期(約五〇〇〇~四〇〇〇年前)の遺跡が発掘され、注目を集めている。今までは考えられなかったことであるが、松原遺跡や更埴市屋代遺跡群などでは住居跡が発見され、自然堤防上に一時的なキャンプ地ではなく、集落を形成していたのである。わざわざ洪水の危険性がある千曲川沿岸に集落を構えたことから、千曲川の漁労を視野に入れた集落立地といえる。また、犀川流域にある中期の信更町安庭遺跡からは、犀川から拾ってきた扁平(へんぺい)な河原石の両端に窪(くぼ)みをつけた漁網の錘(おもり)である石錘(せきすい)(礫石錘)が出土している。飯山市照岡の東原遺跡からは、石錘のほか、土器の破片の両端に刻みをつけて錘に再利用した土錘(土器片錘)や、漁網の浮きに用いる浮子(うき)が出土し、縄文時代における網漁の存在を裏づけている。浮子に用いられた軽石は浅間山の噴出による黒雲母流紋岩質軽石で、多孔質で白色や淡黄色をしており、比重が小さく水に浮く。浮子の大きさは幅五センチメートル、長さ七センチメートル、厚さ一・二センチメートル前後で、これを平滑にしてまわりを磨き、網に取りつけるため、上部に穴をあけたものが多い。この石器こそ、浅間山が上流にある千曲川流域に特徴的に認められる漁労資料といえる。
今から四〇〇〇~二四〇〇年前の縄文時代後・晩期の漁労関係資料も、千曲川流域からはたくさん出土している。松代町大室の道山遺跡からは、七、八センチメートルの網の錘(おもり)にする石錘が出土している。石の錘は割れにくいことから、砂礫質の河床の川で使用されたものであろう。諏訪湖や大町市の青木湖などの周辺の遺跡からは、底が泥質の湖で多用された土錘が出土するが、砂礫河床がほとんどである千曲川流域からの出土は少ない。これもこの地域の特徴となっている。その網漁でとった魚はコイ・フナ・ウグイが代表的なものと考えられる。小県郡真田町の雁石遺跡から出土した魚形土製品は、コイの泳ぐ姿に似ている。
若穂保科の赤野田川右岸にある宮崎遺跡からは、長さ四センチメートル(復元長一〇センチメートル)、幅二センチメートルで両側に三個ずつのかえしのついた鹿角製の銛(もり)が出土し、形は海岸部の貝塚で出土する例と同じものであった。千曲川で銛を使用してとる大型魚といえば、水の流れの遅い岸辺や淀んだ水にそってすすむ習性があり、背をみせて大量に浅瀬を溯上してくるサケ・マスがもっとも有力視される。
そのことを物語るかのように、飯山市の千曲川左岸にある山ノ神遺跡からは、石錘とともに、浅い鉢形の晩期土器に魚の絵を線で描いた土器が発見されている。長さ七センチメートル、幅一センチメートルで腹びれを二つもつ細長い魚で、縄文人の魚への思いが伝わってくる。この絵の魚は長さが短く、胴幅の広いコイ・フナではなく、サケ・マスかシュモクザメと考えられている。サメといえば、さきにみた北相木村栃原岩陰遺跡からサメの歯が出土し、晩期の宮崎遺跡からはサメの背骨を加工して、耳飾りにしたものも発見されている。同じ耳飾りは中野市厚貝(あつかい)にある陣場遺跡からも見いだされている。
こうしてみると、長野県という山岳内陸部の漁労は、千曲川を通して海岸部の漁労と結びついていたことが理解され、縄文時代にはすでに釣漁法(つりぎょほう)、網漁法、刺突(しとつ)漁法の三種があったことがわかる。