縄文から弥生へ

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長野盆地における縄文時代の晩期も、東北地方に中心をもつ亀ケ岡文化の影響が強くなる。この亀ケ岡系土器の後半は工字文とよばれる規格性の強い文様で飾られ、器種も浅鉢(あさばち)・深鉢(ふかばち)・壷(つぼ)・高坏が主となり、注口(ちゅうこう)土器や香炉(こうろ)形土器は消滅する。

 この工字文の流れをくむのが浮線網状(ふせんあみじょう)文をもつ土器で、長野県では小諸市の氷(こおり)遺跡を標識として氷式土器とよばれている。この氷式土器こそ晩期末、すなわち最後の縄文土器である。同じころ東海地方の西部では、二枚貝の縁の肋条(ろくじょう)の凹凸を土器面になでつけた樫王(かしおう)式の条痕文(じょうこうもん)が盛行する。

 長野市塩崎の自然堤防上にある篠ノ井遺跡群や七二会地籍の陣場平山の麓にある知足院(ちそくいん)遺跡では、氷式の浮線網状文土器とともに、条痕文の樫王式土器が出土している。さらに、塩崎の鶴前遺跡では氷式土器と樫王式土器を模倣した土器も発見されている。

 こうして在地の氷式土器と東海地方の樫王式土器が東西の相互交流で使用されていたころ、西日本各地ではすでに稲作農耕が開始され、その東端は濃尾平野まで達していた。そして、その地域にもっとも近い飯田市石行(いしぎょう)遺跡で発見された晩期末の土器片には、はっきりした籾跡が残されていた。信濃の地への稲作農耕の第一歩である。

 やがて、伊勢宮・松節(まつぶせ)遺跡や篠ノ井遺跡群のように、遺跡は水田となる後背湿地に面した千曲川の自然堤防上に立地し、本格的な稲作農耕が開始されていく。弥生時代の到来である。