今をさかのぼること約二四〇〇年前、北部九州をはじめとする西日本各地に朝鮮半島南部から本格的な水稲耕作技術が導入され、やがて東日本各地にもこの稲作が波及(はきゅう)してくる。これによって約一万年間もつづいた縄文(じょうもん)時代、つまりおもに自然のなかで人類が活用しうる資源を管理して、そこから食料を採取・獲得する時代は幕を閉じ、低地を開拓して水田を造成する、つまり自然を改変してみずから食料をつくりだす時代が始まった。そして稲作社会が発展するなかからやがて西暦紀元後三世紀後半以後、篠ノ井の川柳(せんりゅう)将軍塚古墳や更埴市の森将軍塚古墳といった大型の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が九州から東北までの各地に築造されるようになる。この本格的な稲作の開始から大型古墳がつくられはじめるまでのあいだを弥生(やよい)時代、その文化を弥生文化とよぶ。弥生時代は、早期(前四〇〇~三〇〇年ごろ)・前期(前三〇〇~二〇〇年ごろ)・中期(前二〇〇~後二五年ごろ)・後期(後二五年ごろ~二五〇年ごろ)の四期に大別されるが、このうち暦年代は算定の不確かな部分があるので参考程度にとどめるのがよかろう。これら四大別はおもに西日本の文化状況を基準として設定されたもので、東日本の場合は弥生時代の始まりが前期の後半からで、また当初の文化内容も西日本とはかなりようすが異なっている。
弥生時代の幕開けを告げる水稲耕作の技術は、東アジアの長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))中・下流域で遅くとも約七〇〇〇年前には始まり、以後数千年にもわたって各種の改良が加えられたものが、朝鮮半島経由(けいゆ)で日本列島にもたらされた。したがって、土地条件に合わせて各種の灌漑(かんがい)施設と水田を造成し、耕作内容に見合った各種の鋤(すき)・鍬(くわ)類を備え、さらに収穫後の貯蔵・加工にまでいたる一貫した技術体系であった。とりわけ弥生時代の耕作具は、その形態が最近のものとよく似ており、導入当時すでにほぼ完成の域に達していたことがわかる。
稲作技術が体系的であることは、これの導入にあたって技術体系を習得した人びとの日本列島への移住があったと考えなければ、弥生時代の始まりを理解するのはむずかしい。じっさい、北部九州をはじめ西日本各地の弥生早期・前期の遺跡から形質的に大陸系と判断できる埋葬(まいそう)人骨が検出されている。しかし、弥生時代の始まりには、大陸からの移住者とともに在来の縄文系の人びととも深くかかわったことは、弥生時代につくられた物品のなかに大陸系統のもの、縄文系統のもの、弥生独自のものの三者があることだけでも容易に知ることができる。弥生時代の文化・社会をみるとき、往々にして大陸系統の部分にのみ目を奪われがちだが、縄文時代以来の在来の要素と大陸系要素とがからみあって弥生独自の世界ができあがっているのであり、とりわけ東日本では縄文伝統が色濃い。
稲作を始めたことは、単に食料が変わるだけでなく、社会のさまざまなしくみが変わるきっかけとなった。低地を開墾(かいこん)して水田と水路を造成するにはムラをあげて共同で作業をおこなわなければならないし、水の管理をめぐってムラ人やムラどうしの衝突を回避し、調整する必要も生じる。ムラ人どうしや、水源を共有するひとつの河川沿いにあるムラどうしを組織する過程で指導的な立場も生まれてくる。また、豊作を祈願するまつりの執行(しっこう)をつかさどる人物(司祭者)も登場し、ムラの組織化で指導的な役割を兼務する場合も出現した。こうしたムラのなかで、あるいはムラどうしのなかで、役割の違いや優劣の関係が生まれて拡大し、徐々に社会の階層化が進行することとなる。この過程で抗争も日常化する。防御のためにムラのまわりに大溝をめぐらした環濠(かんごう)集落が出現することなどから、戦争が弥生時代に始まったといわれるのは、農耕社会ゆえの事情による。
弥生時代の社会は刻々とその姿を変える。弥生時代はいわば縄文時代から古墳時代への過渡期であり、そのはじめと終わりとでは同じ弥生時代と一括(ひとくく)りにするのに躊躇(ちゅうちょ)するほどに、社会の内容は大きく異なる。そしてまた、北部九州と瀬戸内(せとうち)、近畿、北陸、東海、中部高地、関東、東北と、地域ごとに社会・文化の内容が大きく異なるのも特徴的で、さらに北海道と琉球(りゅうきゅう)諸島ではその生態環境によって稲作は導入せず、縄文時代以来の伝統を継承・改良した社会をつくりあげており、日本列島を舞台とする歴史が複数の道筋をたどることになった点も、弥生時代を考えるうえで重要である。