稲作関係石器の登場

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稲作が導入されはじめる時期のようすを知る資料として、石器があげられる。石包丁(いしぼうちょう)は稲の穂摘(ほつ)み具、石鏃(せきぞく)は狩猟具などと、石器は食料獲得活動を知るのに格好の資料となる。

 塩崎小学校近くの塩崎遺跡群伊勢宮地点からは、この時期の多数の石器が見つかっている。正式な発掘資料ではないので、稲作が本格化した中期後半の石器も一部ふくむ可能性があるが、同時に採集された土器は中期前半が多いので、石器群も同じ時期のものが主と考えられる。じつは長野県内のみでなく、中部・関東のほとんどの地域でこの段階の石器資料のまとまったものがなく、その意味でも採集品ながらすぐれた資料といってよい。

 石器は多種多数にのぼるが、なかでも磨製(ませい)石包丁と大陸系磨製石斧(せきふ)類が明瞭な点に注目したい(図3)。磨製石包丁は、稲作技術の一環として朝鮮半島からもたらされた弥生時代特有の石器で、もっぱら稲穂を摘みとるのに用いられた石器である。身の中央背中寄りにあけられた二つの穴(あな)に紐(ひも)を通し、その紐に指をかけ手にもって稲穂を摘む。弥生時代の稲は稲穂ごとに完熟(かんじゅく)のタイミングが異なるために、根刈(ねが)りによる収穫はおこなわれなかった。もちろん、稲穂だけを摘み、稲の茎葉(くきは)を田に残したのでは翌年の耕作の妨げになるので、焼きはらうか、板状剝片(ばんじょうはくへん)石器という薄い刃をもつ石器で刈りとったかしたようである。伊勢宮地点でもそれらしい石器があるが、刃に光沢(こうたく)があるような確実な例は見当たらない。

 また、大陸系磨製石斧とは、田や水路を区画・保護する矢板や田を耕す木製耕具をもっぱら製作するための石斧類で、樹木の伐採(ばっさい)と荒割りに用いた太形蛤刃(ふとがたはまぐりば)石斧、板材を加工して矢板や鍬(くわ)・鋤(すき)に仕上げるための柱状片刃石斧・扁平(へんぺい)片刃石斧・ノミ形(小形方柱状片刃)石斧がある。伊勢宮地点では太形蛤刃石斧と扁平片刃石斧が採集されている。おのおの数点であるが、前期段階までは縄文時代以来の伝統的な石斧類しかなかったことと比べると、その意味は大きい。中期後半の栗林期には水田そのものが検出され、大型の集落が千曲川沿いの自然堤防上に多く立地しており、明らかに本格的な稲作が実施されたが、伊勢宮地点の石器群はその直接的先駆けとなったものと考えられる。


図3 塩崎遺跡群伊勢宮地点の石器群
弥生時代特有の水田耕具をつくる専用の石斧や穂摘み用の石包丁と、縄文伝統の打製土掘り具や打製石鏃がみられる。