塩先遺跡群のなかでも伊勢宮・松節(まつぶせ)地点では、昭和六十年(一九八五)に道路改修にともなって幅五メートル、長さ約六〇〇メートルにわたって発掘したところ、従来未検出であった待望の弥生中期前半から中ごろの住居が墓地をともなって姿をあらわした。一八軒見つかった住居は、円形一軒を除くといずれも隅丸(すみまる)方形の平面形をもつ竪穴(たてあな)住居である。興味深いのは、千曲川と並行して走る細長い自然堤防上に一軒から数軒が二〇~五〇メートルの間隔をおいて点在し、その住居群の脇にそれぞれ墓地が付属することである。篠ノ井遺跡群でも聖川(ひじりがわ)堤防地点を中心に同時期の住居六軒が検出されたが、このうち四軒は一〇メートルくらいずつしか離れずにまとまり、ほかの二軒は一軒ずつ点在していた。伊勢宮・松節地点のような集落形態は、弥生時代はもちろん、縄文・古墳時代でも類例がないユニークな例である。
篠ノ井遺跡群の中期前半の墓は、一基が前掲の再葬墓であるほか、墓の可能性のある土坑が一ヵ所に集中するだけで、くわしくはわからない。いっぽう、伊勢宮・松節地点の墓は、直径もしくは一辺約一〇メートルの範囲に木棺が一〇基くらいずつ群集するようすがよくつかめる。木棺は一般に、縄文時代にはなくて弥生時代に大陸から導入された新しい葬法といわれる。また、木棺が長軸をそろえたり、直交させたりしながら近接して埋置される姿は、近畿地方の方形周溝墓によく似ている。人骨の計測値からみて渡来系弥生人であるという形質人類学的な調査結果も出され、さらに一体の脛(すね)に武器と思われる鉄片が食いこんでいる。こうしたことから、これらの木棺墓群は縄文時代からの伝統を脱した西日本系の弥生墓制であるとする見方が出されている。
ところが、木棺は長さが一・二~一・五メートルしかなく、人骨が確認された例ではひじを曲げてひざを立てた屈肢葬(くっしそう)であった。木棺をおく土坑の床や埋め土上部に小石を敷く点や、木棺と石棺の違いはあるが、組み合わせ式の棺を狭い範囲に並べるのは、辰野町樋口五反田遺跡のような縄文晩期の石棺墓群と共通するとみることもできる。さらに、木棺ひとつに三体もの遺骸をいっしょに収容した例もあることは、前記の再葬墓の多人数埋葬と通じるであろう。棺(ひつぎ)のなかに小型土器を入れるのも中期前半の再葬墓に類例がある。こうしてみてくると、西日本弥生文化との関連を否定するのはむずかしいとしても、縄文伝統や再葬墓との関係も打ち消すことができない。渡来系弥生人という調査結果以外は在来伝統で説明できてしまうほどである。鶴萩七尋岩陰(つるはぎななひろいわかげ)や小県郡丸子町の鳥羽山(とばやま)洞穴遺跡では、古墳時代中期にいたっても再葬行為がおこなわれたことが明らかであり、伝統がなんらかの形で厳然と継承されていることも疑いない。
塩崎遺跡群伊勢宮地点の石器群、鶴萩七尋岩陰遺跡・篠ノ井遺跡群の再葬墓、そして塩崎遺跡群伊勢宮・松節地点の木棺墓群は、長野盆地における弥生文化の形成過程を知るうえで興味ある問題を、しかし難問を、私たちに突きつけているといってよかろう。同時期の西日本の弥生文化と比較すると、長野地域の弥生前期から中期前半のようすは在来の縄文後期・晩期の伝統がじつに色濃い。しかし、本格的にとはいいがたくとも、部分的・試行的に稲作を導入しはじめ、ゆるやかにではあるが社会変化に取り組んでいる状況をつかむことができる。これは、在来の縄文文化とも、また西日本の弥生文化とも異なる、稲作農耕を取りこんだいわば第三の文化が当地域をふくむ東日本に形成されたことを示しているようである。それが、弥生中期後半以後になると、長野盆地では地域の独自性も保持されるいっぽう、稲作の本格化、環濠(かんごう)集落の受容など、西日本弥生社会との連動性を強めていき、徐々に地域社会が変容をとげていくのである。