本格的な水稲耕作

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水稲耕作は弥生中期前半代にすでに試行的におこなわれ、中期後半の栗林期にはいよいよ本格化した。長野盆地は、千曲川が蛇行(だこう)しながら流れて、その両側に細長い自然堤防をつくっている。これが集落を構える適地となり、その自然堤防のあいだの後背湿地は水田を造成する場として格好の地であった。この湿潤な低地に鍬(くわ)を入れて繁茂する植物を一掃し、水まわりに配慮しながら平坦な区画を造成する開墾(かいこん)作業は、もちろん長い時間と多くの労働力を必要とする。しかし、いったん開墾が完了して水田ができあがれば、その管理維持にかかる時間と労働力は大幅に軽減され、不慮(ふりょ)の災害をこうむらない限りは、子々孫々まで確実に食料の確保が約束される。のちの時代の過酷(かこく)な米の収奪(しゅうだつ)を知らない弥生時代の農民にとって、新たに水田を開発するという課題は、きつい作業ではあっても、夢のような食料資源を獲得する魅力的な作業でもあった。水田の造成は隣りあう複数のムラが共同でおこなったであろうが、複数のムラの共同作業は互いの水利権を認めあう場でもあり、ムラどうしのつながりを円滑にする重要な儀式でもあった。

 長野オリンピックに先立って建設された長野自動車道・上信越自動車道は、住宅地をさけて千曲川沿いの自然堤防を貫いて法線が設定された。そのために、長野市域では、弥生時代以後の農耕集落の密集地帯を貫くことになり、そこを帯状に発掘調査することで、各時代のムラや水田跡など、農耕村落の姿をあざやかに把握できるようになった。たびたび千曲川が氾濫(はんらん)してムラや水田が埋没したために、一ヵ所でいく時代ものムラ跡が重なるのもこの地域の遺跡の特色である。水稲耕作が本格化した弥生中期後半、およびこれにつづく後期については、篠ノ井線稲荷山(いなりやま)駅裏一帯に広がる石川条里遺跡と、長野電鉄河東線川田駅の南側一帯の川田条里遺跡で、水田・水路や農耕具などが検出された。なお、ここで、注意しておきたいのは「条里」という遺跡名についてで、これは奈良時代の条里制による東西南北に合わせた土地区画が近代の地割りにまで残っているとみられる区域を条里遺跡とよぶことにちなんでいる。しかし、川田条里遺跡では、近代と同様の地割りが平安時代にまでさかのぼることは確認できたが、これを条里制地割りと断じるまでにはいたっていない。さらにその下層から古墳時代・弥生時代の水田が見つかっており、これらは条里制のはるか以前であるが、一括して川田条里遺跡とよびならわしている。


写真3 川田条里遺跡の弥生時代水田跡
長野県埋蔵文化財センター提供


写真4 石川条里遺跡出土の木製農具類
長野県立歴史館提供

 この石川・川田両遺跡の弥生時代の水田はどのようなものであったのだろうか。ともに弥生時代中期後半の栗林期から水田経営されたことが確実で、水田が古墳時代ほど広く検出されたわけではないが、発掘区内の各所で見つかっている。土地のこまかな起伏を大きく改変せず、等高線に沿って水田を区画するために、水田は古墳時代以後のように整然とした碁盤目(ごばんめ)状の配列ではなく、長方形を基本とし、隣りあう水田面で段差がはっきりしたり、水田区画にたいして斜めに水路が走っている。区画をつくる畦(あぜ)には幅が広いものと狭いものがあり、広い畦は芯(しん)に木材や枝木を埋(う)めこんで補強したり、杭列(くいれつ)を沿わせる場合もある。これにたいして狭い畦はほとんど土を集めただけという違いがあった。水路には杭で護岸したり、杭を立てならべて堰(せぎ)状のしかけをつくって水田に水をまわす方式をとっている。

 また、石川条里遺跡では、中期の畦のすぐ上層の同じ位置に後期の畦があり、中期水田と後期水田が間層をはさまずに重なりあう地点があり、さらに弥生後期水田と水路が修理をへてそのまま古墳時代前期にまで継続的に用いられた地点もある。これらのことを考えると、弥生時代中期から後期へ、弥生時代後期から古墳時代へと継続した土地利用をめざしたようである。もちろん洪水によって水田が埋没した場合には区画をしなおし、また石川条里遺跡では延長二〇〇メートルにもおよぶ水路が見つかったように、後期には改修・改良が加えられたことも確かである。

 水路の堰状の杭列部分などでは、多量の耕具や木製容器・板・木材がたまっていた。耕具には鋤(すき)・鍬(くわ)・えぶりがある。いずれも刃先まで木製で、鍬は、耕す刃の部分が幅狭く肉厚(にくあつ)な狭鍬(せまぐわ)と、幅広でやや薄身の広鍬(ひろぐわ)とがある。狭鍬は開墾・耕起用、広鍬は泥土攪拌(かくはん)用とみられる。刃が横長でギザギザのえぶりは田面を平坦にならすための道具で、みごとに機能分化している。これら耕具をつくるのに用いる樹木の種類を調べたところ、北陸・東海以西の場合はほとんどカシ類を用いるのに、石川条里遺跡では群馬県の新保遺跡などと同じくクヌギ類を盛んに用いていることがわかった。これはカシ類が照葉樹林という暖かい土地で成育する樹種であるために入手がむずかしく、かわりに長野地域のムラ周辺に広がる山林で容易に入手できるクヌギ類を利用したのであろう。

 収穫は磨製(ませい)石包丁で稲穂を摘みとった。塩崎遺跡群伊勢宮地点のように中期前半から長野盆地では石包丁が出現するが、中期後半にはその数が急増した。水稲耕作が本格化したことがよくわかる。そして高床(たかゆか)の倉庫に稲を貯蔵し、食べる直前になってから臼(うす)と杵(きね)で脱穀(だっこく)し、これを土器の甕(かめ)で煮て食べるのがこの時代のコメの保存と食べ方であった。ちなみに当時のコメの収量は一〇アールあたり一〇〇キログラム内外であったと推定されている。遺跡では、磨製石包丁のほかに、薄い刃をもつ大型の石片で、稲の茎葉(くきは)にふくまれるガラス分が刃に付着して光沢をもつ石器が見つかり、石庖丁と似た用途に用いられたと考えられている。しかし、刃の部分のきずを顕微鏡観察すると、穂首(ほくび)を摘むのではなく、稲を刈るような作業に使われたことがわかる。これは、稲穂を摘みとったあと、稲の茎葉を田に放置しては翌年の耕作の支障となるために刈りとったものと考えられる。近代を想起すれば明らかなように、稲藁(わら)はその用途がじつに広く、有用な資材でもあった。