米以外の食糧

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このように見てくると、あたかも弥生時代中・後期の人びとがコメばかりを食べていたかのように思われるかもしれないが、そうではない。確かに若穂綿内の榎田(えのきだ)遺跡では六〇キログラムもの炭化した米が出土したし、安茂里の平柴平(ひらしばだいら)遺跡でも住居跡内から多量の炭化米が検出されている。しかし、篠ノ井遺跡群では栗林期の溝などからオニグルミ・トチノキ・モモ・アンズ近似(きんじ)種・ヒョウタンの仲間の種子が見いだされ、石川条里遺跡では多量のモモとクルミの種子が出ている。松原遺跡では壺(つぼ)のなかに多量のアワが詰まっていた。千曲川をさかのぼった佐久市の下聖端(しもひじりばた)遺跡では、もっとも多く出土した種子はコメではなくて、コムギであった。畠作物や、縄文時代以来活用してきた木の実類、さらに稲作と同時に大陸から伝えられたフルーツ類を組み合わせて食料としたことが明らかである。コメは美味で安定した食料源であったとしても、夏の洪水が発生すれば壊滅的な被害をこうむったわけで、これに対処する意味でも各種の植物質食料が利用されたのであろう。稲作の重要度が高まれば高まっただけ、他の作物・食料の重みも増すこととなったに違いない。

 さらに、篠ノ井遺跡群では中・後期ともイノシシ・ニホンジカの骨・角が出ており、高山村の湯倉洞窟(どうくつ)遺跡からは弥生土器にともなってクマ・シカ・イノシシ・サルといった獣骨が見つかっている。湯倉洞窟は、多量の弥生土器が出土したとはいっても日常生活の場ではなく稲作農耕民の冬期の狩猟に用いられた場に違いない。長野県内の弥生時代後半の遺跡から打製石鏃(せきぞく)や磨製石鏃が比較的多く出土する。磨製石鏃は武器であるという意見もあるが、南佐久郡や八ヶ岳山麓(さんろく)の弥生土器の出ない地点から点々と磨製石鏃が採集されている。これは磨製石鏃が狩猟具としても用いられたことを示すものであって、湯倉洞窟などの獣骨とよく対応する。このように各種の動物も盛んに食されたのである。