石の道具から鉄の道具へ

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弥生時代中期後半は、稲作が本格化したのを反映して、稲の収穫具である石包丁、鋤・鍬といった耕具、矢板などの水田資材をつくる道具である大陸系磨製石斧類といった、稲作と関係する弥生時代特有の石の道具が本格的に普及した段階である。ところが、東日本に広くいえることだが、ここに世界史上まれなできごとが起こった。ふつうは、道具の素材が石から金属器に置きかわる場合、石の道具がながらく使われつづけたあとに新しい金属素材がそこに導入されて、石器から金属器に置きかわるものである。ところが稲作関係の石器が本格的に普及したまさにその時点から鉄の道具も導入され、そのあとすぐに石器が消滅するという珍しい現象が起きたのである。

 若穂の春山B遺跡では住居跡から多数の石斧といっしょに鉄斧(てつおの)が出土し、篠ノ井の光林寺裏遺跡では特殊な埋納(まいのう)遺構と思われる状況で管玉(くだたま)などとともに鉄斧が発見されている。南関東ではこの時期の住居跡の発見数が多数にのぼることもあって、石斧とともに鉄斧が各地で見つかっており、中期後半には鉄の道具が急速に普及したことが明らかである。南関東も長野盆地も、ともに後期になると中期後半に多数あった石斧類が突然姿を消す。これは鉄斧が大量に普及して、石斧がその役割を終えてしまったことをみごとに示している。鉄斧だけでなく、篠ノ井遺跡群では鉄鎌(てつかま)、大町市の古城遺跡では鉄の釣り針、中野市の七瀬遺跡や北安曇郡池田町の滝の台遺跡では木の表面を仕上げるヤリガンナがあった。農・工具以外でも鉄剣や鉄矛(ほこ)・鉄鏃といった武器類、鉄釧(くしろ)とよばれるブレスレットなど、後期には生活用具の各方面に鉄の道具が急速に普及した。長野県域では、遅くとも約五万年前から人類の活動が繰りひろげられたが、その五万年近い石器時代がここに幕を閉じた。