長野県域だけでなく、前に記したように弥生文化は、縄文文化の伝統に大陸からの新たな文化要素が重なりあうなかで、弥生文化独自の世界を形づくっている。長野県域といういわば高原地帯に大陸起源の稲作文化が根づいてできあがったこの地の弥生文化は、単に技術・経済だけでなく、信仰・祭祀(さいし)のなかにも縄文伝統、大陸起源、弥生独自という三相が複合している。
信仰・祭祀面で縄文文化の伝統を見いだせるものとしては、前記の再葬風習のほかに、土偶(どぐう)・土偶形(がた)容器・顔面付き土器がある。土偶は、縄文時代のとくに中期以後に広く普及した祭祀具であり、妊娠した女性像をかたどることから生命の再生・治癒(ちゆ)、食料の豊饒(ほうじょう)を祈る信仰に用いられたと考えられる器具である。弥生時代になっても中部から東北地方では少ないながらも存続しており、最近では東日本弥生前期土偶の系統を受けついだ土偶が西日本でも近畿・中国・四国の各地で見つかっており、弥生文化の発展期に信仰面でも東西日本間のつながりがあったことを示す資料として注目されている。中部地方特有の縄文晩期系統の土偶である頬(ほお)に線刻入れ墨(ずみ)表現をした有髯(ゆうぜん)土偶が、長野市内でも弥生前期から中期前半の篠ノ井遺跡群・屋代遺跡群・塩崎遺跡群で出土している(写真5)。
土偶形容器とは、顔の表現は有髯土偶と同様であるが、後頭部に穴が開けられて内部が中空につくられた壺(つぼ)の形をとるもので、塩崎遺跡群松節(まつぶせ)地点に破片資料があり、全形がわかる例としては小県郡丸子町の腰越(こしごえ)遺跡の二点が有名である。縄文時代の土偶が妊娠女性を表現したものが多いのにたいして、有髯土偶と土器形容器は乳房が省略されたり、腰越遺跡の二点の土偶形容器は大小があって小形品には乳房の表現がないことから、これらは女性表現という縄文土偶以来の原則がくずれ、大陸起源の男女一対の表現となったと考える意見も出されている。ただ、確かに誇張した女性表現はないものの、土偶形容器などは容器形につくられたこと自体が母体表現である可能性もあり、縄文伝統が転換されたと見てよいかどうかは、なお吟味する必要があるように思う。
顔面付き土器は壺の口縁(こうえん)部に顔面を表現したもので、中部・関東・東北地方各地の弥生中期前半に散見されるものだが、松代地区の松原遺跡例は中期後半に属するまれな実例である。正面に向かって大きく口を開けた姿もユニークで、栃木県の出流原(いずるはら)遺跡の実例とよく似ている。これらの土偶形容器と顔面付き土器は、本来再葬のさいに骨を収容するためにつくられたものと考えられる。しかし、松原遺跡例は住居跡で出土し、一般の土器と共通した扱いを受けており、表面的には縄文伝統を継承しつつも実質的には別個の扱いを受けるにいたっていると考えられる。これはまさしく長野盆地で稲作農耕社会が確立する段階であり、縄文伝統を受けつぎつつも急速に変容をきたし、まったく新しい社会がつくられていく様を如実にあらわすものである。
これにたいして大陸から導入された信仰・祭祀の存在も指摘できる。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に「骨を灼(や)きて卜(ぼく)し、もって吉凶(きっきょう)を占(うらな)う」とある骨卜(こつぼく)法は、骨や亀甲(きっこう)に焼き熱した火箸(ひばし)状の器具を押しあてて生じたひび割れの特徴で吉凶を占うもので、中国本土や東北アジアでは古来よりおこなわれ、現代日本でも群馬県の貫前(ぬきさき)神社や東京都の御嶽(みたけ)神社に継承されている卜占(ぼくせん)法である。長野盆地では、石川条里遺跡・四ツ屋遺跡・篠ノ井遺跡群・更埴市生仁(なまに)遺跡で弥生後期の実例が出土しており、いずれもシカの肩甲骨(けんこうこつ)を用い、灼痕(しゃくこん)が点々と残っている。また、石川条里遺跡と生仁遺跡では卜骨のほかに、シカの角にいく筋もの平行線を刻んだ「刻骨(こくこつ)」とよばれる資料がある。これは外国の民族例との比較から、ギロのように棒を押しつけて音を発した祭祀用の楽器だという意見がある。
石川条里遺跡で出土した、板を組み合わせて鳥をかたどった鳥形木製品も大陸起源の信仰を示す資料である。石川条里遺跡例は古墳時代前期にくだる実例だが、弥生時代に九州から関東まで広く普及したものである。中国東北部から朝鮮半島にかけて、鳥が神の使いとして祖先霊(れい)との仲立ちをすると信じられ、木製の鳥形が棒の先に付けられて聖域やムラの出入口に立てられたものと通じる資料である。こうした大陸起源の信仰や、宗教観念を表現する資料が弥生時代、とくに当地域では後期以後に明瞭に認められる。このことは、中期前半までの縄文伝統の濃厚な社会から大きく変貌(へんぼう)をとげていることを示している。
なお、鳥形製品として、塩崎遺跡群松節地点の第二一号木棺墓から出土した鳥形土器がある。戸倉町の八王子山遺跡でも同種の実例があり、ともに弥生中期前半に属する。壺の口縁部を鳥の首に見立て、胴部の両側に翼形の隆起線を表現する。鳥形の製品としては東日本では突出した古さであって興味ある資料だが、はたして大陸起源の鳥信仰とかかわりがあるのかは不明である。
弥生文化独自の祭祀を示すものには、銅剣・銅戈(か)・銅鐸(たく)などの青銅祭祀具とこれを模倣した石製品がある。長野県内で中期後半にさかのぼる可能性がある青銅器には、戸倉町の若宮箭塚(やづか)遺跡の細形銅剣、大町市の海ノ口神社に北安曇郡小谷(おたり)村出土として伝わる銅戈、佐久市社宮司(しゃぐうじ)遺跡の多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡片垂飾(すいしょく)があり、塩崎遺跡松節地点出土の異形銅剣も中期末以後に属すると思われる。長野県内でも北半にかたよって分布することが何をあらわすのか注目される。このうち、伝小谷村銅戈が大阪湾型銅戈の系統をひく完形品であるほかは、若宮銅剣は剣身先端側の半分が折れた品を再加工して茎部をつくりだし、柄(え)をつける穿孔(せんこう)をあけ、切先(きっさき)側も再度研(と)ぎだしたもの、社宮司遺跡例は細文鏡の破片を再加工してペンダントとしたもの、松節銅剣は身部切先側破片と、いずれも破片か再加工品という共通点をもっている。松原遺跡で三例も検出された石戈のなかの一例が、切先側が再加工されて斧刃(おのば)が研ぎだされているのも、青銅器の再加工と同様で、共通した扱いを受けていると考えられる。
青銅器の再加工は西日本弥生社会では、弥生時代後期になっていわば周辺部で生じる現象である。ただし、石戈が再加工されるのは中期から西日本でも認められる現象であり、見方を変えれば、青銅器が石戈と同じ扱いを受けたとみることもできる。遠く大陸に源流をたどれるとはいえ、西日本弥生社会で独自に発達した青銅器とその模倣石製品が、長野県内にも認められる。しかし、扱いかたは多少異なっていたと考えられる。