集落どうしのつながり

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松原遺跡だけでなく、栗林期には長野盆地南部の自然堤防・扇状地各所に集落遺跡が点在する。それらは相互にどのようなつながりをもっていたのであろうか・石器の製作と流通の面から見ることにする。

 長野盆地南部の集落遺跡では、特定の遺跡で特定の石器が集中的に製作された例のあることがわかっている。松原遺跡では黒色安山岩を用いた磨製石鏃(ませいせきぞく)、榎田遺跡では閃緑(せんりょく)岩製の大陸系磨製石斧(せきふ)が製作されている。磨製石鏃は、黒色安山岩の石塊(せっかい)に打撃を加えて石片(剥片(はくへん))をはぎ落とし、この剥片にこまかな加工を加えて石鏃形とし、最後にこれを研磨(けんま)、穿孔(せんこう)して製品とする。松原遺跡からはこれら製作工程各段階の資料が豊富に出土した。長野盆地内のどの栗林期集落からも黒色安山岩製磨製石鏃が出土するが、製作途上の資料はほとんど出土せず、ほとんどが松原遺跡から供給されたものと推定できる。

 いっぽう、閃緑岩製大陸系磨製石斧、つまり伐採(ばっさい)用の太形蛤刃(はまぐりば)石斧と扁平(へんぺい)片刃は、榎田遺跡で背後の山から閃緑岩の塊(かたまり)を採集し、これをはじめ粗(あら)く、つぎにこまかく打ち割って石斧形とし、さらにこまかく打ち敲(たた)いたのち研磨して仕上げる。これが松原遺跡など長野盆地内の同時期集落に供給される。小島柳原遺跡群中俣遺跡でも石斧製作をおこなうが、榎田遺跡ほど出土数は多くない。松原遺跡でも扁平片刃石斧を製作するが、これは黒色安山岩製で、榎田遺跡からの供給では不足する部分を自前の石材で製作して補ったものと考えられる。さらに興味深いのは、栗林式土器と酷似(こくじ)する土器型式が群馬県内にも分布して竜見(たつみ)町式土器とよばれ、この竜見町式土器をともなう遺跡で閃緑岩製の太形蛤刃石斧・扁平片刃石斧が少なからず出土するものの、これらを製作した遺跡が見つかっていない点である。もちろん今後の調査で発見される可能性はあるが、榎田遺跡で製作された石斧と、石材も形態も酷似する点は注意しておきたい。千曲川-碓氷(うすい)峠ルートで長野盆地南部から関東北西部に石製木工具が運ばれた可能性が十分に考えられるのである。

 つまり、松原遺跡のように当地域のなかでは特異な性格の集落ではあっても、長野盆地の集落、さらにはそれを取りまく諸集落・地域との日常的な関係のなかではじめて存立しうる、そうした関係がこの段階に存在したのであり、土器ではなくて直接生産部門である石器生産のなかにこそ明瞭にそれを見いだすことができる。