日本の近代考古学のスタートは、エドワード=シルヴェスター=モースによる明治十年(一八七七)の大森貝塚の発掘にある。江戸時代にも、畑地などから発見される土器や石器を愛玩(あいがん)し、ときにはそこから歴史を見いだす動きはあったものの、進化論をはじめ近代科学の体系を修得したモースとの方法論的な落差は歴然としていた。モースは東京大学で後進に博物学を広め、やがて動物学・植物学・人類学・考古学の各分野の研究方針を日本のなかに根づかせる役割を果たした。明治十七年(一八八四)に現在の東京大学裏手にある弥生(やよい)町向ヶ岡(むこうがおか)貝塚から発見された一個の壺(つぼ)が、従来発見されていた貝塚土器、すなわち現在の縄文(じょうもん)土器とは異なる特徴をもつと認識され、やがて弥生式土器とよばれることになったのも、博物学の基礎である分類学が根づいたことによる。
弥生式土器という概念が芽生えてまもない明治三十三年、長野市箱清水(はこしみず)にある長野高等女学校(現長野西高等学校)の造成工事にともない、数百個の土器と炭化したコメなどが見いだされた。箱清水遺跡の発見である。当時の校長渡辺敏(わたなべはやし)の遺物採集や長野中学訓導野津左馬之助(のづさまのすけ)の調査結果が、佐渡での資料調査の帰路立ち寄った坪井正五郎(つぼいしょうごろう)の目にとまり、これをうけて現地調査をした蒔田鎗次郎(まいだそうじろう)が『東京人類学会雑誌』に二回にわたって「長野市に於ける弥生式土器の発見」と題して報告した。櫛描(くしが)き波状文と赤い彩色が盛んに用いられた弥生土器であるが、本郷弥生町の壺とはかなり異なるこれらの土器を同じ弥生土器と認めたことは、その後全国各地で見つかる多彩な土器群を弥生式土器と包括(ほうかつ)して理解する契機ともなった。この記念碑的な土器群が、現在箱清水式土器とよばれるものであり、長野の弥生後期を特徴づける土器型式である。
この箱清水式土器は、壺・鉢(はち)・高坏形(たかつきがた)土器では土器の表面を入念に研磨(けんま)して赤く塗(ぬ)るのを特徴とするところから「赤い土器」という愛称があるほどである(口絵参照)。壺ではさらに頸(くび)に櫛描き文をほどこし、甕(かめ)は栗林式以来の伝統であろうか、器面に広く櫛描き文がほどこされる。この櫛描き文は、近畿の櫛描き文とは異なって、土器を上からみたとき、時計回りの方向に文様が何回も継ぎ足しながら描かれる中部高地型とよばれる手法である。壺と甕では櫛描き文の構図が異なり、壺では横線を縦に切るT字文、甕では頸(くび)に簾(すだれ)状文、口縁(こうえん)と胴部に波状文と、画一的な文様になっている。
弥生後期の長野県域は、北半の千曲川・犀川流域は箱清水式土器が広く分布するのにたいして、南半の伊那谷は座光寺原式・中島式土器というまったく別個の土器が分布して、おのおの独自の文化圏を形成しており、箱清水式土器分布圏はまさに「赤い土器のクニ」といった様相を呈する。そして、箱清水式土器は新潟県南部にも分布が広がるだけでなく、群馬県域に分布する樽式(たるしき)土器も多くの点で共通点をもち、埼玉県西部の岩鼻(いわはな)式土器、神奈川県北部の朝光寺原式土器も同じ中部高地型櫛描き文が採用された土器であって、箱清水式土器と兄弟関係にあるものである(図7)。これらの地域は、単に共通する土器が分布するというだけでなく、弥生時代に九州以外では見られない、墓地に鉄剣や鉄釧(てつくしろ)といった副葬品を入れる習俗があることなどから、相互に関連しあう文化圏とみなすことができる。ところが、この箱清水式土器を詳しくみると、同じ千曲川水系でありながらも、下流域の飯山・中野地方、中流域の善光寺平(だいら)、上流域の上田・佐久地域と、地域ごとに個性的な特徴をもっている。これは、千曲川流域の各地に根づいて活躍した農耕民の土器であることの当然の結果であり、集落の群集単位ごとに個性があるのである。