環濠集落と社会の緊張

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箱清水式土器を出土する弥生後期の集落遺跡は、長野盆地の各所に見られ、中期後半に本格化した千曲川流域の水田開発が順調に展開したものとみられる。長野市南部の千曲川左岸の自然堤防上にある篠ノ井遺跡群は、一時的な断絶はあるものの中期前半から後期後半まで長期にわたって形成された大規模な集落である。また集落がのる自然堤防の背後に広がる後背湿地は、弥生中期から古墳時代前期までの水田が継続的に営まれており、石川条里遺跡とよばれている。つまりこの二遺跡は居住域と生産域であり、両者を一体として把握できる点は特筆に値する。そして居住域である篠ノ井遺跡群は、中期後半の松代地区松原遺跡と同様に、大型の環濠(かんごう)集落で劇的な変遷過程をたどっており、長野盆地の弥生後期社会の動向を理解するうえで注目すべき遺跡である。

 篠ノ井遺跡群の弥生後期集落は、長野自動車道長野線の建設に先立つ発掘でその中心部分(高速道地点)が調査され、それ以前におこなわれた河川改修や道路整備にともなう南側部分(聖川(ひじりがわ)堤防地点)の調査、新幹線建設にともなう北東部分(新幹線地点)の調査で、ほぼその全容が把握できるようになった。この集落は後期中ごろに形成されはじめ、この段階では高速道地点で竪穴(たてあな)住居一九基・土坑(どこう)一基、聖川堤防地点で竪穴住居一基・円形周溝墓(しゅうこうぼ)三基・土坑墓五基が確認できる。まだ環濠は掘られていないが、新幹線地点に広がる円形周溝墓群と聖川堤防地点の墓域にはさまれた高速道地点の北東側に居住域の中心があったようである。

 後期後半になると、高速道地点の集落は爆発的に拡大し、環濠が掘削(くっさく)される(図8)。環濠は上幅が一・二~三・七メートル、深さが一・八~二メートルで、東西約二〇〇メートル、南北一四〇メートル内外の範囲を取りかこみ、環濠内部は約三ヘクタールの面積をもつと復原できる。環濠内部の発掘区域から竪穴住居一五八基・柵列(さくれつ)一基・土坑一九基などが検出され、未発掘区をふくめるとその二倍あまりの住居が設けられたことになる。調査者の所見によれば、環濠内部の住居は大きく三群のまとまりがあり、そのうち西群の一角には鉄器の加工や修理、赤色顔料の製作をおこなった工房跡が集中し、中央群には比較的大規模な住居が集中することからムラの有力者の存在が推定できるという。環濠の南、外側にあたる聖川堤防地点は、環濠掘削後も墓域が継続して営まれ、後期中ごろのものよりも大形化した方形周溝墓群がつくられている。


図8 篠ノ井遺跡群の環濠集落全体図

 篠ノ井遺跡群と同じ弥生後期後半に属する環濠集落が、小島柳原遺跡群の水内坐一元(みのちにいますいちげん)神社遺跡(柳原市民体育館地点)でも検出されている(写真9)。環濠は一部では二重にめぐることが確認されており、内側の環濠は上幅が平均二メートル、深さ平均一・九メートルで、断面がV字形の急峻(きゅうしゅん)な掘りこみをもち、外側の環濠は上幅七~一〇メートル、深さ平均一・五メートルで、ゆるやかな掘りこみである。二本の環濠にはさまれた部分には、環濠掘削時の排土を盛りあげて構築した土塁(どるい)状の高まりが残存しており、二本の環濠と土塁によって囲まれた、きわめて厳重に防御(ぼうぎょ)された集落であったと考えられる。


写真9 水内坐一元神社遺跡の環濠
長野市埋蔵文化財センター提供

 約一〇〇〇平方メートルという限られた範囲の調査で、しかも大規模な環濠が調査区の半分を占めたために、篠ノ井遺跡群のように環濠集落の規模や内容は明確ではないが、検出された住居跡など弥生時代の遺構は後期後半の一時期に限られ、環濠ならびに集落の廃絶時期も篠ノ井遺跡群と同じであることは、両者の環濠の掘削・廃絶とも相互に関係があることを示しており重要である。また右の遺跡の南東約六〇メートルにある宮西遺跡は、同じ集落の環濠の外側にあたるが、弥生時代後期の住居跡とともに、古墳時代初頭の前方後方形周溝墓が二基検出されており、その周囲に弥生時代後期以来の墓域が設営されているならば、集落構造も篠ノ井遺跡群とよく似ていることになる。

 長野盆地南部の篠ノ井遺跡群と中部の水内坐一元神社遺跡などで環濠集落が営まれた時期に、北部では盆地を見下ろす丘陵上に立地する中野市がまん淵遺跡のように、やはり防御性の強い高地性集落が出現しており、箱清水文化圏一帯が社会的緊張のなかにあったことがうかがわれる。さらに北方の新潟県上越地方においても、新井市の斐太(ひだ)遺跡群や上越市の裏山遺跡など高田平野を一望できる丘陵上に高地性集落が形成されており、この緊張状態は北陸北東部の勢力との対外的な関係からもたらされたものである可能性が高い。このような広域にわたる緊張状態を引き起こした背景は、いまだ明言できる段階ではないが、古墳時代の到来に向けた全国的な地域再編にからむ政治的動乱と直結したものであることは疑いない。