銅鐸と武器形祭器

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こうした社会の緊張状態を別の面から把握することも可能である。弥生時代を代表する青銅器である銅鐸(どうたく)が、長野県内でも松本市宮渕(みやぶち)遺跡と塩尻市柴宮(しばみや)遺跡の二ヵ所で発見されている、ともに三遠式(さんえんしき)銅鐸とよばれる伊勢湾沿岸地域に特徴的な型式の銅鐸で、宮渕例は鈕(ちゅう)の下半菱環(りょうかん)部のみの破片だが、柴宮例は完形品である。銅鐸は近畿地方を中心としてつくられた祭祀(さいし)具であるが、そのなかでも三遠式銅鐸は濃尾平野でつくられ天竜川以西に分布する一群であり、そのなかで長野県内の二例は東北方に突出した位置での出土例として注目される資料である。銅鐸の用途については諸説あるが、そのなかで、ほんらい豊作を祈願する祭祀具であり稲魂(だま)の依(よ)り代(しろ)であったのがやがて転じて、ある地域で危機状態が生じたとき、その回避を祈願して地域の境界領域に埋納されたのだ、という見解がある。東海地方の銅鐸分布も、濃尾平野を核とする地域の東限にあたる静岡県西部の天竜川右岸に集中している。破片資料の宮渕例はおくとしても、完形である柴宮例の出土地は木曽谷を介して濃尾平野の弥生社会と接している地域であり、濃尾平野の弥生社会から見れば、その東限に相当する位置にあり、銅鐸の埋納に社会的な緊張状態が反映しているとみなすことが可能である。

 また、弥生時代に特徴的な祭祀具のひとつである木製の武器と武具が、水内坐一元神社遣跡の環濠内から出土している。槍先か鏃(ぞく)(矢の先端)と板製の楯(たて)である。弥生時代の実例では楯に石鏃が突き刺さっていた例もあって実戦用もあったことが分かっているが、この場合は実戦用というよりも、模擬戦をおこなってどちらが勝つかを競うことで豊作を占う予祝儀礼に用いられたものであろう。しかし、模擬的ながら戦闘行為が祭祀のなかに取りこまれる背景には、社会的緊張状態が日常化したか、もしくはしばしば発生する状況が存在したと推定することもできる。