周溝墓と副葬品

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長野でもっとも古い方形周溝墓(しゅうこうぼ)は、塩崎小学校敷地内の弥生中期末と報告された例である。しかし、中期と判定する手がかりとなった出土土器は混入の可能性もあり、その形態も後期末に通有のものである。確実な時期比定はむしろ困難で、千曲川流域で中期段階にさかのぼる周溝墓の確実な事例は存在しない。

 弥生中期前葉から中葉の塩崎遺跡群伊勢宮・松節(まつぶせ)地点の木棺墓(もっかんぼ)群や飯山市の小泉遺跡の木棺墓群、さらに中期後半の松原遺跡や徳間本堂原遺跡の礫床(れきしょう)木棺墓群が中期の確実な墓地の実例である。長野の地では、栗林式の成立期前後に、あらたな墓制として組み合わせ式箱式木棺墓を導入し、在来のさまざまな要素を取り入れた独自の木棺墓制を形成した。周溝墓を受け入れない東北部を除く東日本のなかでも、きわめて特徴的な地域を形成している。

 こうした特徴は、後期前半の吉田期にいたっても同様のようで、吉田期の周溝墓も現在まで検出されていない。千曲川上流域の佐久市の北西ノ久保遺跡では、吉田式後半に属する四隅(よすみ)が切れる形態の方形周溝墓一基と礫床木棺墓群が検出されており、千曲川流域の周溝墓としてはもっとも古い実例である。しかし、周溝墓の形態は中期に特徴的なもので、中期後半から後期前半までのこの形態の方形周溝墓がつくられた北関東地方に近接する地理的位置からすれば、後期的周溝墓の初源とみるよりも中期的伝統の残存ととらえるほうが合理的であり、四隅が切れる形態の周溝墓はこれ以後は継続しない。

 千曲川流域の後期墓制を特徴づけるのは円形周溝墓である。現在までのデータによると、後期中葉の箱清水式土器の確立期に出現し、以後後期後半まで盛行する。初期のものとしては、篠ノ井遺跡群新幹線地点で、円形周溝墓の大規模な群集が検出されている(写真10)。幅一〇メートル、南北約一二〇メートルの調査区内に、互いに周溝を共有しつつ密集する円形周溝墓群が検出されており、その総数は五五基にのぼる。墓域が東西方向にどの程度広がるかは不明であるが、東西一〇〇メートル、南北一二〇メートルほどと想定されており、既掘部分のデータから単純計算すると六〇〇基前後の円形周溝墓があると予想されている。居住域と墓域は明確に分離しており、千曲川に接する自然堤防の下流側末端に墓域が形成され、後背湿地側の自然堤防上に居住域が広がる。住居跡がこれまでに七〇軒ほど検出されている。


写真10 篠ノ井遺跡群新幹線地点の円形周溝墓群
長野県立歴史館提供

 円形周溝墓どうしは溝を共有しながらも鱗(うろこ)状に広がり、切りあうことがないことから、一定の期間内につぎつぎと構築されていったものと考えられる。周溝が埋まりきらないうちに、つぎつぎと周溝を接続させているために、より古く築造された周溝墓ほど完全な円形に近く、新しくなればなるほど不整形な周溝墓となっていく。また、ととのった円形周溝墓は南側に多く、全体に南側周溝墓群出土の土器群が古い様相を示すことから、周溝墓群は南から北へ向かってしだいに拡張していったものと考えられる。

 遺体は成人一人が中央部に埋葬され、さらに溝のなかにも成人や幼児の埋葬がおこなわれたものがある。円形周溝墓の規模は直径七メートル前後のものがほとんどで、際立った大きさのものが存在せず、人を埋葬した主体部の構造も基本的に組み合わせ式木棺とほとんど差異がなく、きわめて均質的な様相が見てとれる。副葬品ではガラス小玉、銅釧(どうくしろ)・鉄釧などが検出されているが、これらが直接被葬者の階層差を示すという状況ではなく、副葬品の有無はむしろ主体部の遺存状況に左右されている面が大きく、構築された各周溝墓のあいだの階層的な差異は認めがたいといえる。

 このように新幹線地点で検出された円形周溝墓群は、集落を構成する各家族が千曲川に接する自然堤防末端から順次周溝墓を構築することによって形成された広大な集団墓地と位置づけることができよう。

 中期的な木棺墓制から、新幹線地点でみられた後期的な周溝墓制への移行過程はいまだ明確にはとらえられていない。円形周溝墓を方形周溝墓の形態のくずれたものが在地的に発展したものとみる見方もある。しかし、その出現時期は、おおむね箱清水式土器の確立期前後であり、箱清水式土器を特徴づける畿内的な長脚有稜高坏(ゆうりょうたかつき)の出現期とほぼ時期を同じくしている。このような円形を基調とし、溝を共有しつつ連接して群をなす周溝墓群が、東瀬戸内地方から大阪湾沿岸の一部地域を中心に分布していることを考慮するならば、当地方における円形周溝墓の出現も、より広域にわたる歴史的動向を視野に入れて再評価する必要があろう。

 新幹線地点で確認されたような、集落に隣接する均質的な共同墓地も、つぎの後期後半になると大きな変化を示す。本村(ほんむら)東沖遺跡(上松東団地地点)では、三基の円形周溝墓と、木棺墓五基、土坑墓一基、土器棺(壺棺)墓一基が検出されている。三基の円形周溝墓は、新幹線地点のように周溝を共有することはなく、それぞれ五メートルほどの距離をおいて構築されており、円形周溝墓の周囲には周溝を伴わない木棺墓群や土坑墓、壺棺墓が構築されている。残存状況のよい円形周溝墓SZ1号とSZ2号は、ともに副葬品(装着品)に鉄釧があるが、埋葬主体部はそれぞれ異なる型式の木棺を採用し、とくにSZ1号墓は墓坑内に木棺を安置するための裏込め石を詰めこむなど特異な様相を呈する。またSZ1号墓は、埋葬後に供献された土器群が木棺内に落ちこんだ状態で出土しており、なんらかの葬送儀礼がおこなわれたことを示している。また周溝を伴わない木棺墓のうち、やや独立した位置にあるSK3号墓の被葬者は、五連の銅釧を装着しており、三五点の管玉(くだたま)と一〇点のガラス玉ならびに鉄鏃(てつぞく)一点も出土した。玉類は墓坑内に散乱しており、被葬者が装着していたものとは考えにくく、埋葬時に遺体の上にまき散らしたものと想定される。これにたいしてその他の群集する木棺墓や土坑墓は、墓坑の規模も小さく、まったく副葬品(装着品)などをもたず、その格差は歴然としている。また幼児を埋葬したと考えられる土器棺(壺棺)墓ももはや周溝内には埋葬されず、周溝の外側に配されている。

 同様な例は、後期後半の拠点的集落である篠ノ井遺跡群高速道地点の墓域である聖川堤防地点でも認められる。聖川堤防地点では後期後半の円形周溝墓三基、ならびに四基の土坑墓(木棺墓?)が検出されている。三基の円形周溝墓のうちSDZ4号とSDZ5号は溝を連接し、周溝内に壺棺を埋葬するなど、前代の様相を継承する部分もある。いっぽう、SDZ7号墓はこれらとはやや離れて一基独立的に存在し、その周囲にはSK11~14号墓といった周溝をともなわない土坑墓(木棺墓?)がそれを取りまくように配されている。SDZ7号周溝墓の主体部からは、被葬者の人骨痕跡(こんせき)とともに、副葬品として高坏の坏部、ガラス小玉九点、鉄釧などが出土しているが、前代と大きく異なる点はさらに鉄剣(写真11)が副葬されていたことである。ちょうど高速道地点に後期の環濠(かんごう)が掘削(くっさく)される時期にあたり、西日本の先進地域から流入した鉄製武器の副葬は、あらたな緊張関係の出現を想定させるとともに武力を背景とした階層があらたに集落のなかに形成されてきたことをも示すものであろう。また、SDZ7号周溝墓の周囲に配される周溝をもたない土坑墓(木棺墓)の被葬者たちはその近縁者と推定され、そこからも鉄釧や鉄鏃が出土していることは、鉄製品の保有についても階層間で大きな格差が出現してきたことを示すものと考えられよう。


写真11 篠ノ井遺跡群出土の鉄剣
長野市埋蔵文化財センター提供

 聖川堤防地点や本村東沖遺跡の例は、新幹線地点でみられた後期中ごろの均質的な集団墓地が、後期後半段階では集団墓地のなかでさえも、階層格差が認められるように大きく変化することを示している。しかし円形周溝墓の規模は七メートル前後と小さく、前代と大きな変化は認められない点にこの段階の特徴がある。

 つぎの後期終末段階となると、高速道地点の墓域はさらに大きく変容する。伊勢湾沿岸地域で生みだされた前方後方形墳丘墓の出現である。聖川堤防地点で検出されたSDZ6号墓は、幅最大二・八メートル、深さ最大〇・七メートルの大溝によって区画された最大長一六・七メートルの大型の方形周溝墓であり、西側の中央付近に開口部を設けている。主体部は確認されていないものの、大規模な周溝の掘削土を盛ったかなり高い墳丘が造成されたと考えられる。また、周溝内全域からは多量の土器が出土しているが、これは前代の周溝内埋葬とは異なり、なんらかの盛大な葬送儀礼にともなうものと理解できよう。


写真12 篠ノ井遺跡群聖川堤防地点の9号前方後方形周溝墓
長野市埋蔵文化財センター提供

 一辺に開口部をもつこの方形周溝墓は、その後開口部が徐々に突出・整備されることで、最終的には古墳時代前期後半の定型化した前方後方形墳丘墓へと発展推移していく。聖川堤防地点では、SDZ6号墓以降SDZ9号墓を介して定型的な前方後方形墳丘墓であるSDZ3号墓へと推移していくことが見てとれる。


図9 篠ノ井遺跡群における前方後方形周溝墓の変遷

 このように、後期終末段階になると、それ以前の円形周溝墓とは規模も形態も異なる、新たな前方後方形墳丘墓が、集落に隣接する集団墓地のなかに出現し、それ以降定型化した前方後方形墳丘墓へと段階的に推移していく。さらに、初現期の前方後方形墳丘墓の出現と時を同じくするかやや遅れた段階で、集落の最高権力者である首長(しゅちょう)層は、もはや集落の共同墓地のなかに葬られることはなくなり、集落とはかけはなれた山の尾根上に独立して墳丘墓を構築するようになる。北平(きただいら)一号墳の出現である。

 松代町東寺尾の北平一号墳は、沖積地よりも一五〇メートルほど高い尾根上に築かれた前方後方形墳丘墓である。埋葬主体部が掘りこまれる長方形の墳丘部と、やや不明瞭ではあるが、そこから外方に張りだす陸橋部をもち、その規模は長軸一七メートル、短軸一五メートルである。後方部には比較的短期間のうちに構築された二基の主体部が、墳丘の主軸に沿って掘りこまれており、ともに礫槨(れきかく)状施設によってまわりを保護された組み合わせ式箱形木棺が確認されている。棺上には葬送儀礼に使用された一群の土器が埋置(まいち)され、棺内からはガラス小玉・石製勾玉(まがたま)・管(くだ)玉などの玉類が検出された。出土した土器群は在地の箱清水式終末期の様相を示す一群と、伊勢湾沿岸地域にその系譜(けいふ)をもつ一群とが存在し、その時期と性格を明確に物語っている。

 長野盆地では、北平一号墳以外に山頂に立地する墳丘墓は見つかっていないが、篠ノ井遺跡群高速道地点に形成された環濠集落の首長も、この段階には当然その奥津城(おくつき)を、集落を見下ろす背後の高い山上に求めたであろう。

 このように、平地との比高差が一五〇メートルもある集落とはかけはなれた尾根上にある北平一号墳の占地方式は、基本的に、のちの千曲川流域の前期古墳に共通する占地形態である。しかし、墳丘の形・規模も、副葬品のありかたも、集落に接する集団墓地のなかにつくられた前方後方形墳丘墓と大きく隔たることはなく、その相違は占地以外にはないのも事実である。北平一号墳から初現期の前方後方墳である姫塚(ひめづか)古墳(篠ノ井石川)への移行過程はいまだ明確ではないものの、古墳の出現には、在地首長の階級的な成長とともに、他地域からのさらなるインパクトを待たねばならない。