赤い土器の終焉と古墳時代への胎動

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弥生時代の動乱を特徴づける篠ノ井遺跡群・水内坐一元(みのちにいますいちげん)神社遺跡の環濠(かんごう)集落が解体した直後の集落のようすをくわしく知る資料はほとんどない。

 水内坐一元神社遺跡の環濠がもはや不要となり、環濠が埋まりはじめる段階には、在地の土器とともに多量の北陸系土器が廃棄されている。

 弥生時代終末期には、九州から関東までの地域で、広域に土器が移動する現象が認められる。たとえば奈良県の纏向(まきむく)遺跡には各地の土器が集まり、また伊勢湾地方の土器は、関東から九州までの広い範囲に移動している。もちろん土器がひとりで動きまわるわけではなく、その背後には人びとの活発な移動や活動がある。畿内(きない)や東海地方など政治的な統合がすすんだ地域との交流が盛んとなり、そうした地域の土器が流れこんでくるのであろう。各地の勢力と連動した政治的な社会の形成に向かって歩みはじめたものといえよう。

 長野盆地でも、北陸系土器の流入が一段落したあとに、さらに東海系土器が流入しはじめる。こうした北陸系・東海系土器の流入が長野地域におけるどのような政治的状況を反映するのかは、いちがいにいえる問題ではないが、東海系土器の流入とともに松原遺跡を見下ろす山頂に、北平一号墳というそれまでの共同墓地に営まれた低墳丘墓とは一線を画する前方後方形墳丘墓が出現してくるのである。

 環濠集落が終焉(しゅうえん)・解体するとともに、広域地域間の秩序の再編成ならびに小地域内における集落秩序の再編成がすすむという過程をへて、首長層の権威が強化されたことを、北平一号墳は物語っているように思われる。

 この段階から、さらにすすんで、首長層が畿内を中心とする広域の政治的連合体の一員に加わるとき、長野盆地にも姫塚古墳などの初期前方後方墳、さらには森将軍塚古墳(更埴市)、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳(篠ノ井石川)などの本格的な前方後円墳が登場する。古墳時代の幕開けである。