弥生時代後期の日本列島には、長野盆地における箱清水(はこしみず)式のような独自の土器様式をもった多くの地域圏が存在していた。また、それぞれの地域では住居や墳墓などのありかたも異(こと)にしており、生活様式や文化がまったく異なった地域が各地に併存していたのが当時の姿であった。
しかし、弥生時代後期も後半になると、列島的に足並みをそろえたような動きを見ることができるようになる。篠ノ井遺跡群や水内坐(みのちにいます)一元神社遺跡(柳原小島)などでもそうであったように、列島各地の集落には環濠(かんごう)が掘削されたり、山や丘陵上などに高地性集落がつくられるなど防御性が強い集落がほぼいっせいに出現してくる。そして、これらの集落が機能を弱め環濠が埋まりはじめるころになると、今度は各地の土器がそれぞれの地域の壁を破り、動きだしはじめるようになる。地域間の交流がにわかに活発化したのである。
長野盆地では、四ツ屋遺跡(松代町)や浅川扇状地遺跡群牟礼バイパスA地点(若槻)、中俣(なかまた)遺跡(柳原)などにその動きを見ることができる。これらの遺跡に特徴的なのは、在来の箱清水式土器とともに東海地方や北陸地方の土器がいっしょに出土することである。近畿地方や南関東地方などの土器も少量ながらともなうこともある。土器を人の動きに読みかえると、これらの地域の人またはその地域にかかわりの深い人が長野盆地に入ってきたということができる。このような人が決して少数ではないことは、箱清水式土器の分布圏ばかりでなく、関東地方から東北地方南部にかけた東日本においてもほぼ同様な状況であることからもわかる。
ただし、東海地方や北陸地方などを除いた東日本地域の土器が顕著に動いている状況は認められない。地域間の交流といっても、東日本では、長野盆地のようにもっぱらこれらを受容している地域が多いのである。
いっぽう西日本では、近畿地方と山陽、山陰などの地域で、相互に人の出入りが活発化したことが土器の動きからうかがうことができる。奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡は、箸墓(はしばか)古墳や中山大塚古墳など近畿地方における初期の大型墳墓が集中していることで著名な大和(おおやまと)古墳群がある大和盆地の東南部に位置し、この時期の都市遺跡といわれることもある。ここでは、出土した土器の約一五パーセントが他地域の土器であり、他地域の土器のうち約半数が東海地方に由来するもの、そのほか山陽、山陰、北陸、南関東など列島内の広範囲にわたる地域のものがふくまれていた。また、同様な例は纏向遺跡のある大和盆地から大阪府の河内(かわち)平野にかけて認められるといわれている。列島のなかでもより多くの地域の人びとが集まっていたのがこの地域であり、それは土器の移動現象を起こした中枢の一端がここにあることをしめしている。しかし、西日本を中心に各地に拡散する近畿地方の土器は、この地域の土器ではなく、播磨(はりま)地域(兵庫県)などむしろ周辺部の土器であったようである。中枢とみられる近畿地方内部においても複雑な関係が存在していたことがうかがわれる。
それまでは、生活様式や文化を異にし、日常において相互に情報を共有しなかったとみられる各地域の集団がいっせいに防御的集落を形成したり、地域間交流が活発化することは、それぞれに情報が行きかうような組織がつくられていたことが推定される。その組織とは、土器移動の中枢と見られるとともに、このあと列島内最大規模を誇る古墳が集中して築造されるようになる近畿地方を中核として形成された政治連合であったと理解されている。これに積極的に参画したりかかわりが深かったりしたのが、纏向遺跡に集まっていた土器の出自とする地域であったことは想像に難くない。
このころの日本列島は、鉄器が急速に普及し鉄の需要が一段と高まっていた時期である。しかし、日本ではまだ鉄生産が開始されていなかったことから、その供給源を大陸に求めていたことは当然である。各地域では、必要な鉄を十分に確保することが不可欠であったとともに、すぐれた技術や知識など、大陸の先進文物を円滑に入手することがそれぞれの地域の発展と繁栄のために不可欠であったのであろう。それにたいし、大陸と至近距離にあることなどから、それらの入手を一手に収め、早くから優位な立場をつくりあげていたのが北部九州の地域であった。政治連合の形成は、この地域にたいする共通の危機感や葛藤(かっとう)から生まれたものと考えられている。そして、この政治連合が北部九州勢力にかわり、大陸との主たる関係を掌握した段階にいたって、のちのヤマト政権につながる政治的中枢が近畿地方に誕生したものと考えられる。北部九州にかわって大陸との関係を掌握したことは、この時期を境に大陸からもたらされた中国鏡の分布の中心が、北部九州から近畿地方に移っていることも傍証となる。三世紀初頭の出来事であった。
いっぽう、この出来事を中国史書に見てみると、『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に記される「その国、本亦(もとまた)男子を以て王と為(な)す。住まること七、八〇年にして倭国(わこく)乱れ、相攻伐すること歴年」や、『後漢書(ごかんじょ)』の「桓霊間(かんれいのかん)、倭国大乱」といういわゆる「倭国大乱」が勃発したのは、北部九州にたいする葛藤から政治連合を形成していた時期であるといわれる。その政治連合により共立された卑弥呼(ひみこ)を王とする邪馬台(やまたい)国が、それまで後漢に遣使するなどして結びつきを強めていた北部九州の奴(な)国などにかわり、大陸にたいして倭国を代表する国となることがよみとれるのである。中国史書において、その後も邪馬台国が倭国の中核として記されることからも、政治連合の中枢であるこのころの近畿地方が邪馬台国であったと解釈することに矛盾はない。
弥生時代にはそれぞれ独自の社会をもったクニがいくつも存在していた日本列島において、このころを境に中央政権をもつ国家の形成に向け動きはじめたのである。しかし、この段階において政治的中枢の内部体制はまだ不十分で、弥生時代後期の段階では汎(はん)列島的な動きに連動していた長野盆地など東海以東の東日本を掌握するにはいたってはいない。前方後円墳の築造など長野盆地がこの政治的中枢に直接的にかかわるようになるまでには、しばらく時間を要することとなる。