長野盆地に東海や北陸地方など外来の土器が入りはじめると、在来の箱清水式土器には壺(つぼ)や甕(かめ)などの施文(せもん)の乱れや消失、器形の球胴化、新たな土器との折衷化などの変化が認められるようになる。近畿地方に政治的中枢が誕生したころ、長野盆地でも、外来土器の流入を契機に旧来の伝統を捨てさろうとするような新たな模索がはじまったのである。
ただし、契機となる外来系土器の流入状況は一様ではなく、弥生時代後期にはじまる北陸からの動きが他地域より先行していることは、本村東沖(ほんむらひがしおき)遺跡(上松)などの例からも明らかである。長野盆地北部の中野市七瀬遺跡でも、北陸地方の土器出土量は弥生時代後期後半から徐々に増加する傾向が認められる。篠ノ井遺跡群などで環濠集落が形成されたり方形の墳丘墓が新たに構築されるなど、汎列島的な動きにまきこまれはじめた弥生時代後期後半に、北陸地方との関係を深めつつあったことは興味深い。これら汎列島的な動きに関する情報が、北陸地方との関係のなかで伝達されていた可能性も十分に考えられるのである。
いっぽう、七瀬遺跡における東海地方の土器は、北陸地方の土器の流入がピークにたっしたころになると唐突に流入してくるという。このころの東海地方には、甕の器壁を二~三ミリメートル程度にまでに薄く削りあげ、口縁(こうえん)部の断面がS字状を呈していることを特徴とすることからS字状口縁台付甕とよばれる土器をはじめとして、銅鏃(どうぞく)に多くの穴をあけた多孔銅鏃など独特の文物を保持している。この文物のうち、S字状口縁台付甕などの土器を中心に、東日本を主範囲に大きく二回にわたり拡散する現象が認められている。とくにはじめの現象は、まさにのちのヤマト政権につながる政治的中枢が近畿地方に誕生してまもない時期のことであり、変革期の出来事として注目される現象である。
七瀬遺跡における東海地方の土器は、はじめの現象にともなうものである。このころの東海地方の土器が出土する遺跡が多いことは、七瀬遺跡のある中野市域周辺の特徴でもある。長野市域では先に記したようなこの時期の遺跡を認めることはできるものの、今のところはじめの現象に位置づけられる東海地方の土器が出土することは少ない。さらに、いずれの集落も小規模であり、弥生時代後期に大集落を形成していた篠ノ井遺跡群も影をひそめてしまうこととは対照的である。社会的政治的な変動期において、東海地方からの唐突な流入を柔軟に受容し、新たな時代への変革をまず受けとめたのは、長野盆地北部の中野市周辺地域であったのであろうか。
長野盆地におよんだ変革は、土器や集落動向のみではなかった。それは竪穴(たてあな)住居の平面形態にもよみとることができる。弥生時代後期の住居の多くが隅丸(すみまる)長方形を基調とするものであったのが、方形に変化するのもこの時期のことである。この時期の変革は、一般民衆の生活様式やその技術などにもおよんでいたようである。ただし、この変革が、外からやってきた人びとが占領を強行したり、もともと住んでいた住民を皆殺しにしたというような血生臭い出来事ではなかったことは、このあと使われる土器にもいましばらく箱清水式土器の伝統が残ることからもうかがうことができる。箱清水式土器を使用していた一般民衆層の人びとは、外来の人びとによってもたらされた新しい社会体制や生活様式を、ゆるやかに受け入れながら徐々に変革していったといえよう。
長野盆地のように主として東海や北陸地方の土器の流入を契機に古墳時代への変革を迎える動きは、東日本においてほぼ普遍的に認めることができる。出土する外来の土器のなかで、政治的中枢が存在したと目される近畿地方の土器がふくまれることは、決してまれなことではない。しかしその量はわずかで、主体を占めているのが東海地方ないしは北陸地方であることは示唆的である。