古墳時代前期の中ごろになると、更埴市屋代の有明山(ありあけやま)から派生する尾根頂部に墳丘(ふんきゅう)長一〇〇メートルという長野県下最大の前方後円墳、森将軍塚(もりしょうぐんづか)古墳が築造される。後円部中央には幅広の木棺(もっかん)を納めた床面積日本一といわれる長大な竪穴式(たてあなしき)石室を構築し、前期の有力古墳にみられる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が副葬されていた。また、墳丘は一面葺石(ふきいし)におおわれたうえに、円筒埴輪(えんとうはにわ)や朝顔形(あさがおがた)埴輪、壺形(つぼがた)埴輪などが取りまくように配置され、後円部には家形埴輪がおかれるなど、体系だった埴輪をともなっていた。このように森将軍塚古墳は、前方後円墳の誕生に深いかかわりのある近畿地方と共通した様式をもつ大型前方後円墳が長野盆地に登場したことを示している。
つづいて古墳時代前期の末ころには、篠ノ井石川の茶臼山(ちゃうすやま)山地から平野部にむかって突きでた尾根頂部に、墳丘長九三メートルの川柳(せんりゅう)将軍塚古墳が築造される。長野市域における本格的な古墳時代の幕開けである。川柳将軍塚古墳はこれまでに学術的な発掘調査はおこなわれていないが、鏡六面、琴柱形(ことじがた)石製品二点、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などの玉類多数が出土品として残されている。これらの遺物は、寛政十二年(一八〇〇)に石室があばかれたさい出土したとされ、同年に松代藩が没収、保管した。これが明治四年(一八七一)の廃藩置県のあとに篠ノ井石川の布制神社に払い下げられ、同社の神宝として現在にいたっている。このほか、銅鏃(どうぞく)があり、布制神社へ払い下げる前に散逸(さんいつ)した品と考えられている。
江戸時代に書かれた『朝陽館漫筆(ちょうようかんまんぴつ)』『観古集(かんこしゅう)』『信濃奇勝録(しなのきしょうろく)』などの文献にみえる出土品目と比較すると、遺物はずいぶん散逸しているが、幸いなことに、これらの文献に記載された絵図からおおよその出土品目を知ることができる。また、昭和初期に森本六爾(ろくじ)が故老からの聞きとり調査と文献との比較検討をおこない、出土品として伝わる遺物に関してすぐれた研究をおこなっており、川柳将軍塚古墳の名をいちやく全国に広めるとともに、この古墳のようすを現在に伝えている。
川柳将軍塚古墳には、後円部と前方部にそれぞれ一基ずつ竪穴式石室があったようである。とくに後円部の石室は大型であったらしく、森将軍塚古墳の後円部石室に劣らないものと考えられる。出土した鏡群には三角縁神獣鏡はふくまれず、「異体字日月銘内行花文鏡(いたいじにちげつめいないこうかもんきょう)」とよばれる中国製の前漢鏡をはじめ、仿製(ぼうせい)内行花文鏡、珠文鏡(しゅもんきょう)などの複数の小形鏡からなりたつ。ただし、近年発見された古文献『万伝書(よろずつたえがき)覚帳』は、川柳将軍塚古墳からは四二面の鏡が出土したと記している。これが事実であるならば、一古墳からの出土鏡群としては全国でも類をみない枚数となる。『万伝書覚帳』は旧石川村の庄屋の手によるもので、地元在住のしかも庄屋による覚書となれば、その信憑性(しんぴょうせい)はきわめて高いと考えられる。しかし、出土が伝承されている川柳将軍塚古墳出土遺物群を各文献の記載品目で比較すると、耳環(じかん)など川柳将軍塚古墳の時代以降に確実に作られたとみられるものがふくまれている。これら各文献の記述経緯は定かでないが、松代藩に没収されたあとで他所出土遺物が混入する可能性は少ないとみてよいから、没収以前、つまり盗掘直後にはすでに他所出土品が混入してしまった可能性を考えるべきであろう。
ここで『万伝書覚帳』の記述をあらためて見ると、盗掘の事実が松代藩に知れ、追及をうけたことにたいする対応に苦慮(くりょ)したことが切実にあらわれている。庄屋が自分で盗掘したのではなく、追及されたため事実関係の調査をして出土遺物を差し押さえたもので、真相を明らかにしたいといった知的好奇心による事実認識ではなかったのであろう。川柳将軍塚古墳からはたして何枚の鏡が出土したかを確定することはむずかしいが、『万伝書覚帳』記載の四二面のほかにも、森本六爾の聞きとりによる三七面、『森左近乍恐(おそれながら)口演』記載の二八面、『観古集』の二七面など、具体的に多数の面数が伝えられていることを評価すると、多量の鏡が副葬されていたことは確実とみてよい。また、盗掘後、松代藩に没収されるまでのあいたに優品は売却されたようで、出土品と伝承される方格規矩(ほうかくきく)鏡等の大型鏡がふくまれていたこともまちがいはなかろう。
このほかに石製腕飾類(車輪石)、石突形(いしづきがた)石製品、筒形銅器の出土が伝えられ、古墳時代前期後半の大型前方後円墳にふさわしい内容である。また、墳丘上には葺石(ふきいし)があったと伝えられるうえ、円筒埴輪片(はにわへん)や器財埴輪片の存在が確認でき、埴輪が墳丘をめぐっていたと考えられる。前方部の東側前面付近からは埴輪棺が一基検出されており、楕円筒(だえんとう)埴輪を白色粘土層のうえに横位水平に設置し、別の土器の破片でふさがれていたとされている。埴輪棺は森将軍塚古墳でも認められている。なお埴輪棺は、底部の欠損がいちじるしいことや墳丘上で採集された円筒埴輪片にこれと類似したものがあることを考えあわせると、墳丘に立てられていた埴輪を転用して棺としたのであろう。
森将軍塚・川柳将軍塚の二基の前方後円墳は、ともに眼下に長野盆地南部地域が一望できる「国見の丘」ともいえる、張りだした尾根の頂部に立地している。また、墳丘規模は二基ともおよそ一〇〇メートルと長野県下では抜きんでており、先につくられた松代町北平一号墳とは墳丘形態でも墳丘規模でも歴然とした違いがある。そして内部の埋葬施設や副葬品から墳丘表面の埴輪や葺石などにいたるまで、近畿地方から日本各地に広がる大型古墳と同様なありかたとなる。これは畿内(きない)中枢が全国的規模でおしひろげていた前方後円墳に象徴される政治的体制に長野盆地も加わったことを示す。このことは同時に、この地域に居住した集団が長野盆地において圧倒的な勢力にまで成熟していたことを示すものともいえる。森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳の被葬者は、これらの集団をしたがえるリーダー的な存在(首長)であったと考えられ、そのような存在として集団の内外から認められた人物、つまり「王」の登場を物語っていよう。