長野盆地南部地域では、千曲川右岸地域に森将軍塚古墳、土口(どぐち)将軍塚古墳(長野市・更埴市)、倉科(くらしな)将軍塚古墳(更埴市)、千曲川左岸地域に川柳将軍塚古墳と、七〇メートル級以上の規模をもつ大型前方後円墳の集中的な分布がみられる。これら前方後円墳のつくられた時期は少しずつ異なっており、森将軍塚古墳→川柳将軍塚古墳→土口将軍塚古墳→倉科将軍塚古墳と、千曲川両岸に順次築造されているようすがみてとれる。
長野市若穂方面においても、和田東山古墳群(若穂保科)ならびに大室(おおむろ)一八号古墳(松代町大室)という四基の前方後円墳の継続的な築造が認められる。和田東山古墳群は三基の前方後円墳と二基の円墳である。このうち全長四六メートルの前方後円墳である三号古墳の発掘調査が実施されており、後円部中央に天井石のない竪穴式石室が検出された。石室内からは、内行花文鏡、鉄剣、鉄槍(てつやり)、鉄鏃(ぞく)、鉄斧(おの)、鉄鑿(のみ)、鉇(やりがんな)、砥(と)石、玉類が出土した。石室上部からは土器が、墳丘からは土器と埴輪が出土している。他の二基の前方後円墳は墳丘測量が実施され、一号古墳は全長三八メートル、四号古墳は全長四三メートルであった。墳丘の形態から一→三→四号古墳の順に築造されたと考えられている。
和田東山古墳群の西北側、千曲川に向かってのびる尾根の鞍部(あんぶ)には、全長約五五メートルの大室一八号古墳がある。一八号古墳は大室古墳群北谷支群内の一基とされており、大室古墳群の古墳番号がつけられている。しかし、その立地は大室古墳群の他の古墳のありかたと異なって、強く若穂川田の平坦(へいたん)地を意識していると考えられ、和田東山古墳群との関係において理解したほうがよさそうである。発掘調査はまだで、出土遺物も知られていないが、墳丘形態、とくに後円部と前方部との比高差からは前期古墳である可能性すら考えられる。
長野盆地における前期前方後円墳は現在のところ、前述のように特定の地域に築造されているといえるが、これらふたつの地域の前方後円墳を比較すると、墳丘規模に大きな違いがある。とくに、相前後した時期につくられたと考えられる川柳将軍塚古墳と和田東山三号古墳は、墳丘長が九三メートルと四六メートルでほぼ二倍の開きがある。しかし墳丘形態に注目すると、後円部が長楕円形を呈する点を筆頭に墳丘各所の形態が非常に類似していることがわかる。和田東山三号古墳の墳丘測量図を二倍に拡大し、川柳将軍塚古墳の墳丘測量図と重ねあわせるとみごとに一致し、和田東山三号古墳は川柳将軍塚古墳の二分の一の規格に設計されていた相似墳であることがわかる。
このような墳丘規格の点に着目すると、ほかにも類似した状況をみることができる。森将軍塚古墳と和田東山一号古墳・中野市高遠山古墳はそれぞれ後円部が地形的制約をうけて墳丘主軸が屈曲する。数値上完全ではないが、和田東山一号古墳は森将軍塚古墳のおよそ三分の一の規格に、高遠山古墳は二分の一の規格と指摘されており、土口将軍塚古墳と中野市の七瀬双子塚(ななせふたごづか)古墳は形態・規模ともにほぼ同一となる。このように、前期から中期前半に築造された前方後円墳には、離れた地域でも墳丘規格に相互関係を認めることができる。そのいっぽう、墳丘規模や埋葬施設、副葬品、墳丘外表施設などにおいては質的な差があり、それぞれの古墳を築造した集団間に上下の格差があったことを読みとることができる。このことは、長野盆地南部地域において確立した王権の領域が、千曲川流域という広範囲にまでおよんでいたことを示しているといえよう。弥生時代以来成熟しつつあった集団が格差のある相互関係に組みこまれたという点において、まさに「地域王権」とよぶにふさわしい。
こうしたなかで、若穂地区の和田東山古墳群のように同一丘陵上に三基の前方後円墳が順次築造されている状況は長野県下において他に例をみない。先にみた大型前方後円墳も時期を違えて継続的に築造されているが、個々にはそれぞれ異なった尾根上へ築造しており、単独立地である。和田東山古墳群のありかたはそれら王墓のありかたと大きく異なり、同一集団による継続的な築造と考えることができ、若穂川田地域の歴代の首長墓であることに間違いはない。しかし、同時に、森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳と墳丘規格が共通し、墳丘規模ならびに副葬品の構成には歴然とした差がある。また、副葬品の配列方法が畿内型ではなく、在地的な系譜の延長線上にあるという指摘は重要である。
このように考えてくると、和田東山三号古墳の被葬者は若穂周辺という小地域の首長であるいっぽう、川柳将軍塚古墳を頂点とする地域王権に組みこまれた一員であったといえよう。そして、王権に服しながらも、大室一八号古墳をふくめて四基の前方後円墳を継続的に築造しえたことは、王権のなかにおいてつねに重要な位置を安定して占めつづけていたことを示すと考えられる。
和田東山古墳群に隣接した西北丘陵上には大星山(おおぼしやま)古墳群がある。円墳の三号古墳と方墳三基から構成される。円墳である三号古墳から古墳群の形成が開始され、三→一→四→二号古墳の順に築造された。現在のところ、これらの古墳群をつくった集団の居住地と目される集落遺跡は未発見であるが、集団を支えた生産基盤は和田東山古墳群と同じ川田地域に求めることができる。生産基盤を同じくした二つの古墳群は、墳形の差がまさにその序列を示していると考えられよう。副葬品には弓の飾金具などをふくみ、武器の副葬が多い。和田東山古墳群被葬者の傘下(さんか)にあって、戦闘に秀でた集団の長と考えられようか。
以上のように、地域王権は確立期から森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳を頂点とした序列を明確にして構成されていたとみることができる。この序列はそれぞれの基盤集落の生産量にともなう集団の成熟度から生じたとみられるが、単に在地内部の相互関係ではなく、畿内的祭祀(さいし)の象徴である前方後円墳によって序列化が表象されているように、つねに外的な力によって秩序だてられていたと考えられる。この外的な力とは武力的圧力もさることながら、物流や情報の統制など見えない力であったのであろう。とくに「威信財」とよばれる、生活には直接必要としないが権威の象徴ともいうべきものが、畿内の大王権の管理のもとに分配される。長野盆地においては、森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳、和田東山三号古墳などから出土した鏡や銅鏃、石製腕飾(うでかざり)類などが威信財にあたろう。この威信財は在地では生産しない「珍品」であるいっぽう、権威の象徴としての性格があり、それを所有し、副葬することに大きな意味があった。
地域社会のなかではムラの指導者という同じ役割をになう首長層(しゅちょうそう)のなかから出て、首長間序列の頂点である王となるためには、より力のある第三者、つまり大王権のうしろ盾(だて)を必要とし、またそれを利用したことは想像に難くない。地域の王の権威は、威信財などを介したこの大王権との外的な関係によって承認・保証されていたといえよう。しかし、この王権は大型前方後円墳が離れた地に分布していることから知られるように、特定の集団内において世襲されるものではなかった。経済基盤の差から上下階層化をともないつつ、各集団がそれぞれにゆるやかな連合を形成して、王権を構成していたのであろう。そして大型前方後円墳は王権の象徴として、祖霊祭祀(それいさいし)だけにとどまらずきわめて政治的な意味あいをこめて築造されたものと考えられる。