地域王権の変容

182 ~ 184

古墳時代前期の王者は、森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳の副葬品に示されるように、きわめて祭祀執行者的な側面が強い。たとえば、川柳将軍塚古墳出土の琴柱形(ことじがた)石製品は石突形(いしづきがた)石製品とセットになり、王権の象徴ともいうべき玉杖(ぎょくじょう)となる。また、川柳将軍塚古墳出土と考えられている銅鏃(どうぞく)は大型品であるうえ、十字鎬(しのぎ)をつくりだして多面体を呈するなど過多な装飾性もそなえ、「儀仗(ぎじょう)の矢鏃(やぞく)」というにふさわしい。これにたいして、時期のくだる土口将軍塚古墳では、国産でかつ量産されたと考えられる三角板革綴短甲(いたかわとじたんこう)や多量の鉄鏃など、武器副葬が卓越し、祭祀的遺物が影をひそめる。王が武人としての性格を強めたことをみてとることができる。

 変化は埋葬施設に関しても認められる。土口将軍塚古墳では後円部に二基の竪穴式石室が検出され、主軸を異にするものの、同一墓壙(ぼこう)内に同時に構築されたと考えられている。森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳は前方部にこそ石室の存在が知られるが、後円部中央にはただひとつの長大な竪穴式石室が存在しているだけであった。それが土口将軍塚古墳では同規模の竪穴式石室が二基並列してつくられており、後円部中央にただひとりの王を埋葬するための荘厳な古墳ではなくなったことを示している。この並列する二基の竪穴式石室の被葬者のいっぽうが、王とどのような関係をもつ人物であったかきわめて興味がひかれるが、徹底的な盗掘によりうかがい知るすべがない。

 変化はさらに墳丘に示される相対的な王墓の優位性にもおよんでいる。土口将軍塚古墳は墳丘規模が六八メートルと、長野盆地において卓越していたことに変わりはないが、近接した時期に六一メートルとほぼ同規模で同規格であるとも指摘される、中野市七瀬双子塚古墳が築造される。七瀬双子塚古墳にはまた、土口将軍塚古墳と同様に革綴短甲(長方板(ちょうほうばん)革綴短甲)が副葬されていた。このことは、王権の確立期にみられた墳丘規模の格差にあらわれる王の絶対的な優位性がくずれはじめたことを端的に示している。ただし、墳丘上に立てられた埴輪の規模には大きな差があり、王墓としての体面はかろうじて保っていたとみられる。

 このように、地域王権の変容はいずれも土口将軍塚古墳を起点として始まっており、その登場は社会状況の変化を敏感に反映しているものと考えられる。この時期、近畿中枢部では大阪府の津堂城山古墳が登場し、大王墓の築造が大和(奈良県)から河内(かわち)(大阪府)へと移行する。長野盆地における地域王権の変容も、こうした中央の変動と無関係で起こっているわけではなく、列島規模に展開される政治的・経済的波動の影響を直接・間接にこうむるなかで生じたものと考えられる。土口将軍塚古墳のつぎには同規模の倉科将軍塚古墳が築造され、まだ他の追随を許していないが、有明山将軍塚古墳にいたると墳丘長三二メートルと、ついに長野盆地の他地域に築造される前方後円墳と規模が変わらないどころかむしろ小さくなってしまう。こうして当初は一〇〇メートルを誇った王墓も、ついには他と同格あるいはより下位の規模の前方後円墳しかつくれなくなってしまう。ここにいたって、地域王権の頂点に立った長野盆地南部地域の優位性は失墜(しっつい)することとなる。