祭祀域の形成

184 ~ 187

千曲川に沿って発達する自然堤防の背後には、典型的な後背湿地(こうはいしっち)が広がっている。ここには現在も条里水田の痕跡(こんせき)が明瞭に残っており、千曲川左岸の篠ノ井石川・塩崎においてはこの後背湿地を生産域(水田域)としてとらえ、石川条里遺跡と呼称している。

 長野自動車道建設にともなって発掘調査された石川条里遺跡高速道地点では、弥生時代以来の水田が調査されるとともに、微高地が検出され、大溝によって区画された古墳時代前期の遺構が発見された。この大溝に区画された内部には、一般的な住居形態である竪穴住居跡はなく、多数の土坑(どこう)(穴)と建築後すぐにこわされた平地住居の痕跡が認められた。また、大溝のなかからは、多量の土器のほかに内行花文鏡片や銅鏃、石製腕飾類(車輪石・石釧(くしろ))、筒形石製品、紡錘(ぼうすい)車形石製品、勾玉や管玉などの玉類、多量の砥石、木製品、建築用材などが出土している。

 いっぽう、高速道地点の西側近接地の発掘調査も実施されており、ここでも微高地が検出され、低湿地部への傾斜変換点付近から集石遺構ならびに高坏(たかつき)や小型丸底土器などの多量の土師器(はじき)、石製腕飾類(石釧)、勾玉などの玉類、砥石、木製品が出土した(石川条里遺跡栟下(くねした)地点)。このふたつの微高地のあいだには低湿地部が広がり、連続したひとつの遺構でないことが明らかとなっている。さらに出土した土器からみられる存続時期は重複しながらも異なり、大溝による区画遺構のほうが古く、引きつづき栟下地点へと連続することも明らかとなった。

 高速道地点と栟下地点のふたつの遺構には共通した点がみられる。その立地が低湿地部へと張りだした微高地にあること、石製腕飾類や多量の砥石の出土、木製品の出土、列をなす木杭(きぐい)の検出、竪穴住居を欠くことなどである。これらはいずれもこのふたつの遺構が一般的な集落とは異なる側面を際立(きわだ)たせている。


写真17 石川条里遺跡出土の石製腕飾、玉類、銅鏃、銅鏡ほか 長野県埋蔵文化財センター提供

 とくに高速道地点においては、出土遺物が内行花文鏡、銅鏃、石製腕飾類、玉類などと、川柳将軍塚古墳ときわめて類似することが注目され、想定される年代からも両者は密接な関係にあったと考えられる。ただし、大溝内部の建物跡は、立地上からも柱を抜きとり意図的に破壊されていたということからも、首長層の居宅あるいは一般的な生活域と考えることはむずかしい。栟下地点も同様に、石製腕飾類や玉類、初期須恵器の存在など高速道地点に通じる側面があるいっぽう、溝による区画がなく、低湿地部への傾斜変換点に集石遺構が構築されるなど、明らかに異なる側面も認められる。この相違点は築造に関連した古墳の格の違いに起因しているものと考えられる。両地点から出土した石製腕飾類は、高速道地点が車輪石と石釧、栟下地点が石釧のみであり、車輪石をふくむほうがより威信財としての格が高いといわれている。鏡の有無も同様であろう。

 いっぽう、この古墳築造にともなう場とみられる石川条里遺跡の二つの地点から出土した土師器の器種構成をみると、高坏・小形丸底土器などの出土量がきわめて多く、この時期の住居跡出土土師器の傾向と共通している。これは古墳築造をじっさいに継続して推進したのは多くの民衆の力であったことを雄弁に物語っている。石川条里遺跡の二つの特殊遺構は、首長層から民衆までが一連の古墳祭祀に加わった場として認識できよう。


図13 篠ノ井地区の主要遺跡分布

 さて、古墳築造にかかわる場とみた石川条里遺跡の二つの特殊遺構が存在する後背湿地から篠山(しのやま)山地の山麓(さんろく)部にかけては竪穴住居跡が認められず、集落域としては利用されていなかったことが知られる。主として墓域として活用され、王の墓である川柳将軍塚古墳もこの山地の中腹から派生する尾根頂部に位置している。これにたいして、一般集落は自然堤防上に認められる。

 このように千曲川から山麓部に向けて、集落域・生産域・墓域と、空間利用が明確に区分されている。ただし、前方後方形周溝墓(しゅうこうぼ)や方形周溝墓は現在の聖川(ひじりがわ)沿いに形成される墓域のなかにつくられ、木棺墓等は集落域内から検出されるなど、集落に近接して墓域が形成されてもいる。この墓域の二極化は空間利用の意識をうかがううえで注目され、このうちとくに山地尾根上には集落と隔絶した墓所が形成されたと考えられる。事実、前期から中期でこの山地尾根上に築造される古墳は比較的規模が大きく、また副葬品に優品をふくむものが多い。後期の群集墳にいたると不明瞭となるが、前・中期古墳は集落付近につくられる墓とは区分される。ここにさきの石川条里遺跡の二つの特殊遺構の存在を考えあわせると、古墳築造にかかわる特殊遺構の場は、集落の立地する自然堤防と墓域である山地部とのあいだに選地していることがわかる。さらにこの場は低湿地に張りだした微高地上に立地しており、まさに集落域と墓域を分かつ祭祀(さいし)域としての役割を果たしていたとみることができる。民衆にとっては、身近で意識することの少ない日々の祭祀行為とは違った公的な祭祀の場として目に映ったことであろう。

 この祭祀域の形成は、地域王権にとって、前方後円墳が単に一時の流行として取り入れた墓制という一過性のものではないことを示している。前方後円墳と祭祀場は、それ以前の在地文化のなかには存在していないものであり、二者一体のものとしてもちこまれた可能性が高い。一般民衆とは隔絶した特別の場所への墓所の選定と祭祀場における祭祀の執行とは、地域集団内における王の権威づけとして不可分の行為であったのであろう。対内的には不完全な連合体という形にとどまったにせよ、対外的には国家形成期の政治的体制への参加意思の表明という、地域社会の変化・統合を促進させる役割を十分にはたしたと考えられる。