古墳時代前期後半になると、篠ノ井遺跡群として把握されている自然堤防上に集落が形成されはじめる。篠ノ井遺跡群各地点の調査の結果、現在の篠ノ井塩崎字浄光・宗旨坊付近にあわせて一六〇軒以上の住居が存在していたことが判明している。この前期後半の集落が形成された地は、弥生時代後期に環濠(かんごう)集落が営まれた地と重なり、前期前半に一時的な断絶があるが、一貫して同じ場所に集落の中心地が選択されている。
集落の形成当初、弥生時代後期に掘削された環濠は完全に埋まりきってはおらず、浅いU字形の溝として機能していたようである。ただし、ほんらい環濠のもっていた防御的性格はうすれ、区画溝としての機能になっていたと考えられる。この区画溝に囲まれた内側には、一辺八メートル程度の竪穴住居が、一辺五メートル程度の竪穴住居や、一辺三メートル程度の竪穴住居または納屋(なや)かと考えられているきわめて小さな竪穴建物とそれぞれにまとまりをもってあらわれる。いっぽう、住居群の西側にはL字形の溝によって区画された内部に二三棟以上の掘立柱建物が位置する。一軒×二軒あるいは二軒×三軒の建物跡で、区画溝をともなう意図的な配置や軒数から倉庫群と考えることもできよう。
このつぎの段階になると、竪穴住居の規模的な格差はなくなり、ムラ全体に一辺四~五メートル程度の住居が分布するようになる。住居群は、東側では区画溝の外側(大規模自転車道地点)まで、西側では倉庫群の範囲にまで広がり、集落の構造が大きく変化する。この変化は川柳将軍塚古墳の築造や石川条里遺跡高速道地点遺構の出現とほぼ時を同じくし、王墓築造という一大事業が集落にあたえた影響は、その構造を大きく変えるほどのものであったとみることができる。
竪穴住居は基本的に隅丸方形(すみまるほうけい)を基調とし、四本の主柱によって屋根などの上屋(うわや)を支える構造である。これは規模の大小にかかわらず一般的な形態と考えられるが、残念ながら上屋構造の詳細については明確にできない。家のほぼ中央部には地床炉(じしょうろ)が存在する。炉は生活を営むうえで欠かすことのできない台所照明施設であるが、これがない住居跡もみられる。比較的小型の住居跡に炉跡が少ない傾向がみられ、これらは食住をおこなわない付属建物や作業場かと思われる。
篠ノ井遺跡群高速道地点では道の痕跡もみつかっている。道は住居群のある場所から倉庫群の北側を通り、石川条里遺跡高速道地点の方向へと延びている。ムラの内部における道路事情は不明であるが、ムラの外部への道路があることはムラに居住した人びとの活動圏を考えるうえで見逃せない。
いっぽう、篠ノ井遺跡群新幹線地点や県道長野上田線塩崎バイパス地点の調査からは、区画溝の外側にも集落域が広がっていたことを知ることができる。ただし、各調査地点ともに住居跡の確認軒数は数軒程度ときわめて少ない。また、篠ノ井遺跡群とは聖川をはさんで展開する塩崎遺跡群においても、市道松節(まつぶせ)小田井神社地点や市道篠ノ井南二三五号線地点において数軒程度の住居跡が確認されているにすぎず、ムラの中心地のありかたと対照的でさえある。
このように篠ノ井ムラは弥生時代後期に環濠集落が解体したのち、きわめて密集度の高いムラとしてふたたび形成される。とくに再形成の当初は竪穴住居群が一定の大きさごとのまとまりをもって位置し、また、住居群とは区画された場所に倉庫群と考えられる掘立柱建物が複数存在するなど、計画的ともいえる様相を呈していた。この時期が、川柳将軍塚古墳に埋葬された王の活躍の時期にあたると考えられることはきわめて興味深い。各地で発見があいつぐ豪族居館あるいは首長層居宅とよばれる一般集落とは隔絶した政治経済の中心地は現在まだ発見されていないが、この時期にムラが計画的に配置されたことは、川柳将軍塚古墳に埋葬された王の存在をぬきにしては考えがたい。奈良県佐味田(さみだ)宝塚古墳出土の家屋文鏡(かおくもんきょう)や奈良県東大寺山古墳出土の環頭大刀把頭(かんとうたちつかがしら)に造形された家形の文様などから、王者が私的生活を営んだ家(ヤケ)は竪穴住居であった可能性が指摘されている。前述の篠ノ井ムラの様相を考えると、区画溝の内側には王が居住していたと考えることがすなおであろう。その後の集落構造の変化は、求心的な存在であった王の死、そして大古墳の造営という一大事業の推進という、つねならざる状況がおよぼした影響と考えられる。
生活域の外側には区画溝を境として墓域が形成される。聖川堤防地点においては、集落が断絶する時期から前方後方形周溝墓、方形周溝墓が継続的につくられ、一大墓域を形成する。前期後半に位置づけられる前方後方形周溝墓SDZ三号は、墳丘長二三メートルとこの墓域のなかでも突出した規模となる。このSDZ三号墓の存在は篠ノ井ムラの内部においても階層分化がすすんできたことのあらわれとみることができよう。さらに、集落域内では木棺墓が構築されている。篠ノ井遺跡群高速道地点で発掘調査された木棺墓からは鏡と玉類が出土した。とくにSM七〇一六号墓には木箱に入った珠文鏡が副葬され、被葬(ひそう)者は碧玉(へきぎょく)製管玉の首飾りをし、岩手県久慈産と考えられる琥珀(こはく)玉とガラス玉による腕輪を両腕に装着していた。墳丘をもたない木棺墓にまで鏡の副葬がなされている点は異例である。篠ノ井遺跡群・塩崎遺跡群では一般的な規模の竪穴住居からも鏡片の出土がみられ、ムラのなかにおいて鏡が首長層の独占物ではなかったようである。また、琥珀玉は伝承される川柳将軍塚古墳出土遺物のなかにもふくまれており、王墓の副葬品目と共通したものが集落内の木棺墓にまで副葬されている点は注目される。これは、王と民衆とが完全に隔絶した段階までには王権の内実が達していなかったことの反映とみることができる。
いっぽう、この大規模集落を支えた生産の基盤は、自然堤防の背後に形成された後背湿地に求められる。この後背湿地は、弥生時代以来現在にいたるまで水田であることが明らかにされており、弥生時代に開拓された水田を古墳時代にも継続利用していた。それとともに、石川条里遺跡高速道地点と栟下(くねした)地点のあいたに広がる低湿地部分など、古墳時代から水田開発がおこなわれた地点も徐々に明らかとなっている。弥生水田を受けついで維持管理するとともに、新田開発を積極的におこなっていたのである。この維持管理と新田開発にたずさわった主体はまさに篠ノ井ムラに居住した民衆であり、塩崎ムラの民衆であったと考えられる。そしてこの水田経営こそが、川柳将軍塚古墳に象徴される地域王権の経済的基盤となったのである。
やがて千曲川の対岸に土口将軍塚古墳が築造されるころになると、きわめて密集度が高かった篠ノ井ムラの中心部に新たな住居の建築が認められなくなり、ムラは廃絶してしまう。塩崎遺跡群においても、調査された住居跡は市道松節小田井神社地点で二軒のみと以前に比べて激減してしまう。この時期、全国的にも集落遺跡の消長が大きく、列島規模で変革期を迎えたとみられる。王墓の変化から想定した地域王権の変容とも時期的に合致し、首長層から民衆にいたるまで新たな時代の波が押し寄せていたことが明らかであろう。現在のところ、これにかわる新たなムラがどこに形成されたかは明らかでないが、塩崎地区の越(こし)将軍塚古墳や飯綱(いいずな)社古墳、中郷(なかごう)古墳などの存在や、水田が継続的に経営されている状況からみる限り、民衆の営みが絶えることなくつづいていたことは確実である。