五世紀の後半から六世紀にかけての、雄略(ゆうりゃく)政権の確立と東国支配権の強力な浸透の結果は、科野(しなの)の地においても大きな変容をもたらした。そのいちじるしい例は、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が長野盆地で衰退していくのにたいし、南信の飯田地方では盛行期を迎え、新しい埋葬施設の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)をいち早く導入していることである。古墳造営における主体は南信地域に移行したかの様相を呈する。しかし、千曲川水系における古墳も前代にもまして新たな独自の展開をみせる。この背景に、従来の地域王権にかわり、ヤマト政権の支配権のもとに中小の在地豪族層が分離台頭(たいとう)した姿をかいまみることができる。
長野盆地でも、古墳の形態・規模・内部主体・立地そして副葬品などに、いちじるしい変化が認められるようになる。長野盆地南縁部(更埴地方)においては、山頂の大型前方後円墳を盟主(めいしゅ)とする地域王権の継承は、全長約三〇メートル級の有明山(ありあけやま)将軍塚(更埴市)をもって終焉(しゅうえん)を迎えたと考えられている。
これにたいして、中期の前方後円墳の築造は、小型化し、盆地周縁の標高の低い山腹や段丘上に拡散するようになる。いっぽう、山の頂上には直径三〇メートル級の大型円墳(えんぷん)が構築されるようになる。山麓(さんろく)や扇状地には八丁鎧塚(はっちょうよろいづか)古墳(県史跡、須坂市)に代表される積石塚(つみいしづか)古墳がすでに出現しており、合掌形(がっしょうがた)石室の初見もこのころに求められる。内部主体でも竪穴式(たてあなしき)石室は大型円墳へ継承されるものの規模を縮小し、石棺(せっかん)的様相を強め、次世代で終焉を迎える。千曲川下流域ではこのころ、粘土槨(ねんどかく)と割竹形木棺(わりたけがたもっかん)が盛行するようである。これにおくれて、組み合わせ式箱形石棺(はこがたせっかん)・埴輪(はにわ)円筒棺や木棺直葬(じきそう)の古墳が登場する。副葬品においては、前期の呪術(じゅじゅつ)的・宝器的なものから甲冑(かっちゅう)や直刀(ちょくとう)・鉄鏃(てつぞく)などの武具・武器類が増加し、やがて馬具類が加わる。埴輪は円筒埴輪を中心とし、形象(けいしょう)埴輪が若干認められる程度で、出土量からみて古墳の一部分に立てるだけになり、個体数も減る。
古墳を構築する空間は千曲川水系全域に広がるが、いずれも水田可耕地面積に応じた小規模の古墳の構築で、数基の古墳による古墳群を形成するようになる。小空間を支配地とするこれらの古墳群の被葬者は、個人墓の形態を存続しており、中小の豪族が独立し、血縁関係による支配権を確立し継承しているようすを示している。いっぽう、千曲川下流域にみられる粘土槨と割竹形木棺を主体部とする古墳は、畿内(きない)の墓制をいち早くとりいれたもので、ヤマト政権の直接の支配下にあった可能性が高いといわれている。長野市域においては、こうした内部主体をもつ古墳は今のところ確認されていない。しかし、山頂の大型円墳や小型の前方後円墳には、内部主体が明らかになっているものは少ない。竪穴式石室があれば存在するはずの割石角礫(わりいしかくれき)が見いだせないので、粘土槨を主体部とする古墳が存在する可能性は否定できない。