塩崎・石川沖積地の古墳

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石川条里(じょうり)水田をとりまく西部山地の山頂や山腹に立地する古墳を取りだして、古墳被葬者の支配地とみられる地理的空間を細分してみると、沖積(ちゅうせき)面に三空間あり、そして山間地が考えられる。

 更埴市との市境、標高四九〇メートルの篠山(しのやま)山腹に越(こし)将軍塚古墳(市史跡、篠ノ井塩崎)がある。周溝(しゅうこう)をめぐらす直径三二メートルの大型円墳で、土口(どぐち)将軍塚古墳(県史跡)の後円部径を大きく上まわる。内部主体は割石小口(こぐち)積みの竪穴式石室で、全長六・二メートル、最大幅が一・四五メートルあり、土口将軍塚古墳の石室よりも大きい。出土遺物から五世紀中ごろのものと考えられている。塩崎や稲荷山(更埴市)の沖積地を一望する位置にあり、長野盆地南縁部に展開した地域王権からいち早く独立した在地豪族の奥津城(おくつき)(墓)であろう。平坦地近くには直径一七メートルの八幡宮(はちまんみや)古墳とよばれる小規模円墳が構築されている。主体部は竪穴系の石室と推定され、仿製変形四獣鏡(ぼうせいへんけいしじゅうきょう)・鉄剣・碧玉(へきぎょく)製管玉(くだたま)など古式の遺物が出土している。越将軍塚古墳に後続するものと考えられるが、立地がいちじるしく異なり、群集化しない点に注意する必要がある。


写真20 越将軍塚古墳の墳丘・葺石(篠ノ井塩崎)
長野市立博物館提供

 石川・塩崎の沖積地を見下ろす薬師山(やくしやま)の山頂には直径三二メートルの四之宮(しのみや)将軍山古墳(篠ノ井塩崎)があり、塩崎方面へ突きでる山稜(さんりょう)の中腹には直径二六メートルの薬師山一号古墳がある。ともに大型に属する円墳であるが、主体部や出土品は不明である。前者を初代とする二世代の支配権の継承が考えられる。


図15 大塚古墳の墳丘実測図
(縮尺1:1000、『信濃』より) (信更町田野口)

 薬師山山麓の沖積地との比高差三五メートルの舌状台地(ぜつじょうだいち)上には、中郷(なかごう)古墳(市史跡名は中郷神社前方後円墳、篠ノ井塩崎)がある。前方後円墳の形態をとるものの、低位置にあり、前代の前方後円墳とはおもむきを異にする。全長四六メートル、後円部径二三メートルの規模である。内部主体は竪穴系の埋葬施設を推定されているがさだかでなく、埴輪や副葬品の伝承もない。この古墳を地域王権の系統のなかに位置づける見方があるが、構築位置は他の地域王権墓からかけはなれたものであり、むしろ前記した被葬者の支配権の継承のなかで本古墳の築造年代を考えたほうが妥当なように思える。

 川柳(せんりゅう)将軍塚古墳から沢をはさんで標高四五〇メートルの山頂に、直径一六・五メートルの飯綱社古墳(篠ノ井石川)があったが、現在は削平され痕跡をとどめていない。内部主体は不明であるが、漢式鏡(かんしききょう)や馬具など(市指定)が残されている。馬具のうち木芯鉄板張輪鐙(もくしんてっぱんはりわあぶみ)は、長野県下で最古のものとみられている。眼下に石川沖積面を望み、この地域を支配地とする被葬者の奥津城である。一基のみの存在で群集化せず、八幡宮古墳(篠ノ井塩崎)ともども、次代は石川・塩崎の沖積地を支配地とする中郷古墳に取りこまれたものと考えられる。

 沖積地背後の信更(しんこう)町域には、聖川(ひじりがわ)が形づくった小盆地を見おろす台地南縁部に、大塚(おおつか)古墳(市史跡、信更町田野口)がつくられている。この古墳は前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)形態という特色がある。全長四〇・五メートルの規模であるが、前方部の長さは後方部にたいしていちじるしく短い。内部主体は墳裾(ふんすそ)の角礫の散在から竪穴系のものと推定されている。この形態の古墳は千曲川水系において古墳築造の最初のものとされるが、山間地という特殊な立地や内部主体の推定から五世紀中ごろ以降の築造と考えられている。出土遺物などは伝えられていない。盆地の入り口部にあることから、聖川水系山間地を支配地とし、犀川地域との交流を統率する豪族の奥津城と考えられる。