川中島扇状地の古墳

197 ~ 199

つぎに、川中島扇状地と犀川流域を支配地とする古墳をみてみよう。扇状地に対応する古墳に布施塚(ふせづか)古墳群(篠ノ井布施五明)・境内(けいだい)古墳(篠ノ井小松原)・腰村(こしむら)古墳群(同)、犀川流域にかかわるものに馬神(まがみ)古墳群(小田切馬神)・真當沖(まとうおき)古墳群(安茂里小市)がある。

 布施塚古墳群は三基の円墳からなり、川中島扇状地の南端部に位置し、標高四三一メートルの代官山と通称される独立台地上にある。一号古墳の墳丘(ふんきゅう)は代官山の自然地形を削り落とすことにより墳形をととのえ、直径二〇メートルの規模である。主体部は盗掘をうけており、わずかに土壙(どこう)状の落ちこみが確認され、木棺直葬と推定される。南東に突きだす小尾根の先端に、直径一〇メートル前後の小規模な三号古墳がある。一号古墳と同様な主体部が推定される。二号古墳は一号古墳の北に隣接しているが、主体部は横穴式石室である。これらの被葬者は血縁的支配権の継承者であった可能性が高い。一号から三号へ、さらに二号への継承であり、木棺直葬から横穴式石室への変遷をみることができる。

 篠ノ井小松原の境内古墳は、岡田川の扇状地扇頂の小台地上に位置し、直径二六メートルの中型の円墳で、五世紀後半ころの築造と推定されている。墳頂上には二基の組み合わせ式箱形石棺が存在したが、一基のみ残存している。犀川上流の武富佐(たけふさ)古墳(信州新町)にも同形態の主体部が用いられ、小地域の豪族の台頭という意味から注目される。

 腰村一号古墳(市史跡名は腰村前方後円墳)は川中島扇状地の扇頂部に位置し、小松原集落の背後の段丘上につくられた全長四三メートルの小規模な前方後円墳である。前方後円墳としては標高三八六メートルの低位にあり、平坦地との比高差は二三メートルにすぎない。後円部を北に向け、前方部は段丘縁部と並行してつくられ、全姿を扇状地面に向ける。内部主体は竪穴系の石室と推定されるが、墳丘からはその痕跡は確認されない。後円部墳裾から円筒埴輪や形象埴輪が出土しており、これらから六世紀前半期の構築とみられている。千曲川左岸の前方後円墳では、川柳将軍塚古墳とこの古墳だけに埴輪が立てられている。犀口(さいぐち)に近い立地から犀川とのかかわりも否定できない。南方に直径一四メートルほどの円墳があり、北方にかつては横穴式石室を内部主体とする古墳が存在したと伝えられるが、一号古墳との系譜ははっきりしない。


写真21 馬神1号古墳(犀口)より川中島扇状地を望む

 犀口の犀川左岸、標高五三九メートルの尾根上に馬神一号古墳が構築されている。全長三〇・五メートル規模の前方後円墳と推定され、全姿を犀川流域方面に向ける。内部主体や出土遺物は不明である。支配地は明らかでないが、犀川の川中島扇状地への出口に立地することを考慮すれば、腰村一号古墳とともに犀川の流通を支配した豪族墓と考えられる。近隣に竪穴式石室や合掌型石室を主体部とすると推定される三基の円墳が存在するが、一号墳との系譜は不明である。

 安茂里小市の山腹台地南縁部に、三基の円墳をもって真當沖古墳群が形成されている。直径十数メートル規模のものであるが、石材を用いた竪穴系や横穴系の内部主体とは思えない。犀川左岸の沖積地および対岸の扇状地の一部を治めた小豪族墓と考えられ、立地や規模・内部主体から、六世紀前後の構築で三世代にわたる支配権の継承を想定してよい。