つぎは、犀川および千曲川左岸の扇状地・沖積地を支配圏とする古墳である。裾花川(すそばながわ)扇状地には古新田(こしんでん)古墳(安茂里平柴)、浅川扇状地には地附山(じづきやま)古墳(上松)・上池ノ平(かみいけのだいら)古墳群(同)・滝上山(たきうえのやま)古墳(同)があり、三才沖積地には三才(さんさい)古墳群(古里三才)、犀川沖積面と裾花川氾濫原(はんらんげん)の複合地には南向塚(なんこうづか)古墳(古牧上高田)がそれぞれ対応する。
夏目ヶ原(なつめがはら)浄水場拡張工事のさい一基の円墳が破壊され、銅製獣形鏡(市指定)と直刀が出土した。出土地が安茂里平柴字古新田であることから古新田古墳と呼称する。「諏訪平午砲台(ごほうだい)近傍ヨリ発掘」と箱書のある完形の円筒埴輪が伝承されており、六世紀の前葉に比定される。その場所や年代からみて古新田古墳に属するものと考えられる。この地域で初期群集化する古墳は今のところみられない。
長野市街地の北半分は、広大な浅川扇状地形上に展開する。この地域を支配地とする盟主的な豪族墓が地附山頂上に築かれ、地附山古墳とよばれている。全姿を扇状地面に向ける全長三九メートルの小型の前方後円墳との見方もある。内部主体は不明で、副葬品の伝承もなく築造年代はさだかでないが、盟主墓であれば五世紀中ごろ以前と推定される。
この古墳の東側下方の緩斜面には、六基の円墳からなる上池ノ平古墳群がある。一号古墳は小尾根状地形を削りとり、それを盛土することにより墳丘をととのえる。直径一八メートルの規模である。主体部は三基並列した組み合わせ式箱形石棺が確認され、中央の一号石棺は合掌形石室である。出土遺物は二号石棺から刀身が出土しているほか、円筒埴輪片が採集されているにすぎない。二号古墳は直径一四メートルで、一号古墳と同様な工程により墳丘をつくっているが、墳頂が削平されていて主体部は確認されない。墳裾(すそ)では時間差のある埋葬儀礼用の土器埋納坑(まいのうこう)が二基確認され、高坏(たかつき)を中心に土師器(はじき)、蓋坏(つたつき)・𤭯(はそう)などの須恵器(すえき)が多量に出土している。三号古墳の墳丘は自然地形に若干の盛土でつくられ、直径一〇メートルの規模である。主体部は残存状態から組み合わせ式箱形石棺と思われる。出土遺物は須恵器の個体数が土師器を上回わり二号古墳より古式である。埴輪は六個採集され、そのうち壺形(つぼがた)埴輪は墳頂部にすえおかれた可能性が高い。四号古墳は五号古墳とともに近接して斜面につくられ、直径九メートル前後の規模と推定される。主体部は後出の横口式(よこぐちしき)構造の組み合わせ式箱形石棺である。五号古墳の主体部は合掌形石室で、鉄剣・鉄鏃(てつぞく)・刀子(とうす)・轡(くつわ)が副葬される。轡は瀌轡(ひょうくつわ)とよばれ、東北アジアに系譜が求められるもので、朝鮮半島との親縁性をうかがわせる。六号古墳は直径二〇メートルほどの中型円墳であるが、主体部は不明である。古墳群は五世紀後半に築造が開始され、六世紀中葉ころに終焉(しゅうえん)を迎える。三号古墳を初代に、二号→一号→(六号)→五号→四号への血縁的支配権の継承が推定される。
箱清水地籍を望む地附山中腹の台地上に、直径二〇メートル級の滝上山古墳がある。主体部は小規模な竪穴式石室と推定されているがさだかでなく、六世紀前後の築造であろう。位置的にみて上池ノ平古墳群とは別系統の豪族墓と考えられる。
古里地籍の長峰丘陵段丘斜面に、三才一号古墳がある。千曲川左岸でもっとも北に位置する前方後円墳で、沖積面との比高差の少ない古墳のひとつである。全長四七メートルの規模で、全姿を沖積面に向ける。内部主体は墳丘からはうかがえない。上方に直径二〇メートル級の二号古墳がある。墳丘の高さから竪穴系の主体部と推定される。この推定が正しければ、後述する舞鶴山(まいづるやま)古墳群と同様に二号古墳から一号古墳への墳丘形態変遷が考えられる。
南向塚古墳(市史跡)は裾花川氾濫原に位置し、長野盆地の平坦面における唯一の古墳である。形態は全長四八メートルの前方後円墳と考えられているが、前方部の改変がいちじるしく、往時の姿をとどめていない。帆立貝(ほたてがい)式古墳または造出付(つくりだしつき)円墳の可能性も指摘されている。墳丘からは内部主体を推定できる痕跡は認められない。出土遺物として後期古墳にみられる瑪瑙製勾玉(めのうせいまがたま)が伝えられているにすぎない。築造年代は推定の域を出ないが、六世紀前後と思われる。この古墳の構築方式と社会的・経済的背景を解明するには、本体および造営にかかわる集落跡の発掘調査が必要である。