千曲川右岸の中期古墳の展開は、水田可耕地が少ないことから松代地域と若穂川田地域に限られる。ただし、この両地域のあいだに大室(おおむろ)古墳群が構築されはじめ、その始まりは五世紀後半に求められている(大室古墳群については四項参照)。
まず松代地域である。妻女山(さいじょざん)と並行して清野沖積面へ突出する小尾根上には、横穴式石室一基をふくむ五基で清野(きよの)古墳群(松代町清野)を形成していたが、現在では直径一一メートル級の円墳二基が残存しているにすぎない。内部主体は不明であるが、六世紀前後に清野地域を支配した小クラスの豪族墓であろう。
気象庁精密地震観測室の尾根上に、二基の舞鶴山(まいづるやま)古墳群(市史跡名舞鶴山1・2号墳、松代町西条)がある。一号古墳は、自然地形を利用した直径三二・七メートルの大型の円墳である。墳裾は整形され、墳丘の中央付近に地山の削りだしが認められる。主体部は墳頂に二基並列してつくられている。南主体部は竪穴系石室で、天井石の上を粘土でおおった痕跡を残す。北主体部は木棺直葬と考えられ、珠文鏡(しゅもんきょう)が出土している。二号古墳は、緩斜面につくられた全長三六・五メートルの前方後円墳である。主体部は河原石状の礫(れき)を用いた竪穴系石室である。築造年代は埋葬施設の状況から、一号古墳は五世紀後半に、二号古墳は六世紀前後に比定され、松代扇状地を支配した継続する二世代にわたる中クラスの豪族墓と推定されている。円墳から前方後円墳への形態の変遷が注目される。
長礼山(ながれやま)古墳群(松代町東条)は、尼飾山(あまかざりやま)の山腹緩斜面に二基つくられている。ここからは松代沖積地や千曲川を越えて北アルプスまで一望できる。一号古墳は直径二〇メートルと推定される円墳で、主体部は割石小口積みの竪穴式石室である。二号古墳は南西下方に位置し、直径一六・六メートルの円墳である。墳丘は自然地形と若干の盛土で整形され、全体を葺石(ふきいし)でおおい積石塚(つみいしづか)を思わせる。主体部は組み合わせ式箱形石棺で、大小二枚の平石を天井石としている。主体部から金製円環(きんせいえんかん)・鉄鏃(てつぞく)が出土し、墳頂からは円筒埴輪や家形(いえがた)・人形(ひとがた)などの形象埴輪が採集されている。二世代の継続する豪族墓と考えられ、主体部の形態も竪穴式石室から組み合わせ式箱形石棺への変遷がたどれる。この南に位置する尾根上には、直径一八メートル級の天王山(てんのうやま)一・二号古墳(松代町東条)がつくられており、これらへの支配権の継承も考えられる。
つぎに若穂川田地域をみると、川田の沖積地に突きだす大星山(おおぼしやま)からの尾根上には、和田東山(わだひがしやま)古墳群と大星山古墳群の二系列の豪族墓があることがわかってきた。前者は三世代にわたり前方後円墳が受けつがれており、後者は方墳や円墳形態での継続から前者にたいし服属関係にあったとされる。このような関係は他の地域ではみられず、特殊な豪族階層関係があったことをうかがわせる。大星山二号古墳は一辺一七メートルの方墳(ほうふん)と考えられている。主体部は組み合わせ式箱形石棺で、天井部は平石を徐々にせりだす方法で合掌形につくる。築造年代は五世紀前半に比定され、組み合わせ式箱形石棺および合掌形石室の祖形と考えられる。和田東山古墳群には前方後円墳三基のほかに、六世紀代のものと推定される一〇メートル規模の円墳が二基存在するが、内部主体および前方後円墳との関係は不明である。